2025年7月27日日曜日

「何も持たない」

 イエスは神の国を宣べ伝え、病人をいやすために十二人を遣わすにあたり、次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。」(ルカ9・2~3)


  この箇所を20年前に読んだ時には、「何も持たない」ということが心に残りました。アシジの聖フランシスコの姿も影響していたと思います。何人かの神父様のお話によると、ここで示されているのは宣教に際しての持ち物の規定というよりも、「今、準備されている状況で始めなさい」、「あなたが持っているもので戦いなさい」というメッセージのようです。必要なものは神様が備えてくださるから、心配することはないと言われているような気もします。

先日、私は15年ほど過ごした居室から移動しました。使用を委ねられている居室ですが、個人のものという感覚になっていたようです。身の回りを整理し、手放してよいものとそうではないものを判断する中で、今の私にとってこの移動は必要であると感じました。現代にあっては、持つことが暮らしの前提とされていることは否めません。便利さ、効率の良さ、さまざまな機会を望めば、自然と持ち物は増えていきます。その一方で、できるだけ簡素に過ごすことが理想とされてもいます。ある神父様が以前、持たないことによって生じる不都合な面を受け入れることは清貧の一部であると話してくださったことが思い出されました。

 

そうした中、私はある言葉を見つけました。一つはウルグアイの元大統領ホセ・ムヒカ氏の「本当に貧しい人とは、多くを持たない人ではなく、ますます多くを必要とし続ける、次から次へと欲しがる人のことです。」という言葉です。大統領在任中も農場で自然に囲まれた生活を送ったムヒカ氏は、その質素な暮らしぶりから、世界で最も貧しい大統領として知られていました。

もう一つは、教皇フランシスコの『ラウダート・シ』にありました。「わたしたちは、多様な宗教的伝統に、また聖書にも見いだせる、古来の教訓を思い起こす必要があります。それは「より少ないことは、より豊かなこと」という確信です。(中略)キリスト教の霊性は、節度ある成長とわずかなもので満たされることを提言しています。それは、人生の中で与えられる可能性に感謝するために、自分が所有するものへの執着を捨てるために、ないことを悲しみ挫けることがないように、小さなことに立ち止まってそれを味わえるようにしてくれる、あの素朴さへと立ち帰るということです。」


今年に入って亡くなられたお二人の言葉は、どう生きること望んでいるのかを私たちに尋ねているように思います。居室の移動は、今ある状況で、持っているもので新たに始めるためのヒントをいただく機会となりました。


SMV