2023年3月7日火曜日

沈黙のうちに思いめぐらす

 LINE, Facebook, Twitter, Instagram, WhatsApp・・・。世の中ではSNSが大人気で、今やそれなしではさまざまな面で不便を感じるほど、私たちの生活に深く浸透しています。私自身もSNSを2種類使っており、それがなければ教会での活動もままならないほどです。
 SNSは誰かと連絡を取るほかに、自分の近況を知らせたり、告知したい情報をシェアしたりするためにも使います。

 このようにSNSはいろいろと便利なツールですが、私がいやだなと感じるのは、何か不愉快なことがあったとき、生の気持ちをそのまま投稿してしまっているたぐいのものです。もちろん、誰にでもつらいこと、悲しいことはあります。それをSNS上で吐露することで、その投稿を見た人々から慰められたり、助言をもらったりすることもあるでしょう。SNSにそうしたプラスの側面があることは否定しないし、私自身もまたそのようにして励まされた経験があります。私が残念に思うのは、特にクリスチャンが祈りの中で神様とそれについて静かに対話することなく、感情のおもむくままに書いて投稿してしまっているものです。

 聖書の中では、マリア様がふしぎな出来事を体験したとき、しばしばそれについて思いめぐらしていたことが語られています。イエスが生まれるとき、天使が羊飼いたちに現れて救い主の誕生を告げたことを聞き、マリア様は「これらの出来事をすべて心に納めて、思いめぐらしてい」ました(ルカ2.19)。またイエスが12歳のころ、エルサレムの神殿で学者たち相手に対等に議論をし、さらには神殿を「父の家」と呼んだときも、マリア様は「これらのことをすべて心に納めてい」ました(ルカ2.51)。

 2000年前は今のようにSNSがなかったので、マリア様がこうしたことを多くの人々と「シェアする」ことはもちろんありませんでした。しかしだからといって、代わりに人々に喋り散らしたりするようなこともなさいませんでした。表向きは日常生活を淡々と送りながら、ご自分の体験したふしぎな出来事を折に触れて思い出したり、その意味を神様にたずねたりしていたことでしょう。そしてすぐには答えが出なくても、安息日に会堂で神のみことばを聞いたり、人々と話したり、その他さまざまな体験を重ねていく中で、「あの出来事はこういう意味だったのか」と悟ったこともあったでしょう。そんなふうにしてマリア様のこころの中で、神のみわざは日ごとに深みを増していったのです。

 3月25日はカトリック教会では神のお告げの祭日です。私たちもスマホ画面から目を上げて、自分の心にあることについて静かに神様と対話してみてはどうでしょうか。(SMP)