2020年12月24日木曜日

大きな喜び


 

12月25日はクリスマスの日であり、カトリック教会では降誕節の始まりです。今日は、神様が私たちを贖うために御子を送ってくださったので、神様が私たち一人一人をどれだけ愛してくださっているかを、誰もが覚えています。イエス様は世界の光であり、死と罪の闇から私たちを救うために来られたのです。このメッセージは、今日、世界には多くの問題があるので、特に重要です。コロナウイルスの影響で、多くの人がこの休日を一人で過ごしたり、多くの苦難や不確実性に悩まされたりすることでしょう。様々な意味で暗い時代です。しかし、今日は希望があることを忘れてはいけません!神様は私たちと共におられ、神様の光は私たちにあります。神様は私たちと共におられ、その光は暗闇よりも強いのです。私たちには喜びを感じる理由があります。天使たちが羊飼いたちに語ったように:

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」ルカ2・10-11


メリークリスマス!


SMH

2020年12月4日金曜日

お祈りのお願い

 




今日、2020年12月4日、私たちはドイツ本部のためにお祈りの一日として過ごしています。それはドイツ本部の姉妹たちはほとんど全員が新型コロナウイルスに感染してしまいました。アメリカ管区の中にも感染した姉妹たちがいます。そういう状況ですので是非皆様のお祈りで助けていただきたいと思います。皆で力強く祈ることによって乗り越えられますように。


主イエス・キリスト
御父の御子よ
あなたの霊を今
全地の上に遣わしてください。
すべての民が
堕落、災害、戦争から守られるよう
すべての民の心に
聖霊を住まわせてください。
聖母マリア、
すべての民の御母が
わたしたちの執りなし手でありますように。
アーメン。



             「すべての民の御母への祈り」           SMT

2020年10月28日水曜日

聖母マリアとロザリオ

                  聖母マリアとロザリオ 

10月7日はロザリオの聖母の記念日になっています。これは今から約400年以上の昔、1571年10月7日のレパント(ギリシアのコリント湾口)海戦におけるキリスト教軍の勝利を、ロザリオの聖母の御保護によるものとして記念されたことによります。

現在では、教会は遠い過去の出来事を思い出すよりも、むしろ救いの歴史の中でロザリオの聖母の占める位置を認めるために記念しています。

ロザリオの経緯は、初代教会の砂漠の隠遁者にまでさかのぼります。彼らは、短い祈りを唱えるとき、小石とか木の実などを使って、1回唱えると右から左へと移し何回祈ったかを数えました。初代教会や中世の修道者たちは、短い祈りの言葉を反復して唱え黙想することで、神とのきずなを深め、悪を退けると考えました。信徒も、暗記できる「主の祈り」などを反復して唱えることを勧められていました。

11世紀頃、短い祈りとして「アヴェ・マリアの祈り」が普及しました。さらに聖母マリアが「アヴェ・マリアの祈り」の霊的バラの花冠(「ロザリオの祈り」)を喜ばれると告げられた伝説もあって、この信心は12世紀ころから奨励されるようになりました。

ロザリオはラテン語のローザ(バラ)から由来し、バラの花園とかバラの花冠などを意味します。

「ロザリオの祈り」は「主の祈り」に始まり10回の「アヴェ・マリアの祈り」と「栄唱」で1連としてバラの花編みに見立てます。5連で1環としバラの花冠の出来上がりです。この「ロザリオの祈り」は「アヴェ・マリアの祈り」を繰り返し唱えながら主イエス・キリストのご生涯の神秘を黙想するのです。

聖母は聖女ベルナデッタに、罪びとの回心のために、この「ロザリオの祈り」をたびたび熱心に唱えるよう勧められました。また聖母はファティマで3人の牧童にむかって救霊を得る為、罪びとの回心のため、戦争を終わらせるため、毎日ロザリオを唱えるように何度も勧められました。

聖ヨハネ・パウロ二世教皇はロザリオを聖性への養成の一つと見なして、これを「マリアとともにキリストを観想する」すぐれた祈りとしています。

 

主の祈り

天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。 

みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。

わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。

わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。

わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。アーメン

 

アヴェ・マリアの祈り」  (10回)

アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたと共におられます。

あなたは女のうちで祝福され、ご胎内の御子(おんこ)イエスも祝福されています。

神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、

今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン


栄唱

栄光は父と子と聖霊に。はじめのように今もいつも世々に。 アーメン


文責SMG           

                                                     

文責SMG

2020年9月5日土曜日

イエスの御傷

 915日は、「悲しみの聖母」の記念日です。わが子イエスが十字架につけられて亡くなられたことを聖母マリアが悲しまれたことを思う日です。聖母の悲しみといえば、イタリア・ルネッサンス期のミケランジェロが制作したピエタ像を思い浮かべる人も多いでしょう。十字架の上で亡くなられたキリストをひざの上に抱く、あの悲しくも美しい聖母マリアの彫刻です。

聖ペトロ大聖堂のミケランジェロのピエタ像




自分の修道名が「ピエタ」であるためか、私はイエスの受けた御傷に対して特別に強い思いを抱いています。聖書の中に、「彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた」(イザヤ53.5)というみことばがありますが、イエスの受けた「傷」によって私たちが「癒される」という、まるで正反対のことを包含する神のくしき御業に深く魅了されます。

自分自身の人生の歩みを振り返ってみると、心に受けた傷というのは身体的な傷と同じように、癒えるのに時間がかかるものです。あまりにもショッキングな出来事を経験した直後は、そのことを自分の中で受けとめるのが精いっぱいで、誰かに話そうと思ってもなかなか言葉にならないものです。さらにはせっかく勇気を出して人に話したのに、共感を持って聴いてもらえることは極めてまれで、へたに慰められたり、励まされたり、ひどいときには聞き流されたり、いさめられたりまでして、「こんなことになるのだったら、いっそのこと話さなければよかった」と、かえって傷口が広がってしまうことすらあります。

 キリストは私たちの心に決して無理に入ってはこられません。「見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう」(黙示録3.20)。キリストは私たちの心のドアを静かにノックするだけです。このみことばを表現した絵では、ドアは外側に取っ手がついていません。それは、ドアを開けるのはあくまでも内側にいる私たちであって、外側にいるキリストは決して無理にこじ開けたりしないことを表しています。私たちはイエスに向かってドアを開けてもいいし、開けなくてもいい。たとえ私たちが開けなかったとしても、キリストが私たちに災いを下したり呪いをかけたりするようなことは決してありません。

 私が心の扉をイエスに向かって開けるか開けないか決める自由を、私にそっとゆだねてくださっているイエスに賛美!

扉の外側には取っ手がついていない

 

2020年8月21日金曜日

殉教者聖ゲオルギオのフランシスコ修道会の「来日100周年」

 

    1920年5月31日に最初の3人の姉妹たち、Sr. M. Candida、Sr. M. Jeanne BerchmansとSr. M. Xaveraが日本の宣教地に派遣され、故郷に別れを告げました。長い船旅の後、8月14日夜に来日して、4日後の8月18日朝に、約束された宣教地、札幌に到着しました。
    実は、本年5月に、藤学園講堂でこの記念すべき出来事を大勢の恩人・友人の皆様とご一緒に、ごミサと感謝の集いでお祝いしたいと計画していました。しかし残念ながら、コロナウイルスの感染拡大自粛のために中止することに致しました。
    8月17日の午後には札幌マリア院で、ベルナルド勝谷太治司教様とマルクス神父様によって姉妹たち一同心を合わせて感謝のごミサをお捧げし、すべての感謝を神様に捧げました。祭壇の前に宣教女の十字架、記念のローソク、地球儀、キノルド司教様の写真、また最初のシスターたちの写真を飾りました。
 これからもお祈りで感謝のうちに皆様と結ばれて、そして「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)というイエス様の約束のみ言葉に信頼しながら、未来に向かって歩みたいと思います。 


                  





SMT

 

2020年8月2日日曜日

北海道で400年間 信仰の神秘


                 


北海道で400年間 信仰の神秘

8月5日は記念すべき日です。その日、北海道で 初ミサが捧げられてから400周年になります。資料によりますと、カルワーリオ師は1620年8月5日(雪の聖母の祝日)に北海道での初ミサを松前城下で捧げられました(仁多見 巌氏著書の「北海道とカトリック」44ページ)。
その大きなお恵みを記念し、神様に感謝しましょう。
ある香部屋で次の文書が書いてあります。「ごミサ1回1回を、最初で、唯一で、最後のミサを捧げるように」。
私たちもこういう心構えでごミサに与かりましょう。
                 SMT
ドイツのルドロフ神父様の絵

2020年7月15日水曜日

み旨とともに


「み旨とともに」
  中世ヨーロッパでペストが流行し、多くの人々が次々と亡くなっていくなか、
人々が抱いた恐れは、私たちが今経験している不安をはるかに超えるものだった
ようです。そのような中にあって、ある人々は祈りの実践や相互扶助を目的とした
信徒信心会、共同体を各地で始め、それらが後の修道会創立、発展への土台となった
と学んだことがあります。彼らは危機的状況にあっても、人々の回心と救いのために、
具体的に行動したのでした。


  先日、神父様のお話で、現在の状況に触れる内容がありました。
「先の見えない状況にあって、神に希望を置くことを忘れてしまうのは、いつの時代
にも共通しています。私たちは一日も早く落ち着いた日常に戻るよう願っています。
しかし、以前のようにと過去の平穏を、また私たちの願いを未来に投影するばかり
ではなく、心を神に向けて、み旨が行なわれますよう、み旨に導かれる未来を願い
求めましょう。」と神父様は話されました。
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 7月17日は、本修道会の創立者ムッター・M・アンゼルマ
の帰天日(1887年)です。ムッター・M・アンゼルマは、
何よりも神のみ旨を探し求めました。日常、時代の状況に現れる
神の呼びかけに応え、神の望みに自身を委ねるという模範を残さ
れました。その姿勢は、困難にある人々、助けを必要としている
人々への奉仕へとつながり、現在も記憶され続けています。
歴史に残る出来事のただなかに生きる私たちは、この模範を糧と
して、神の私たちへのまなざしであるいつくしみに信頼と希望を
置いていきたいと思います。

                          SMV

2020年6月14日日曜日

み心の信心

み心の信心について
イエス様は、シスター・マルグリット・マリー・アラコックに現れ、み心の信心を広め、
み心の祝日を定めるように願われました。それは1675年のことでした。シスターは
クロード・ラ・コロンビエール神父様に、イエス様の心の痛みと願いを話し、2人はこの
ことのために共に働きました。
ここにコロンビエール神父様の美しい祈りがありますので、皆様にご紹介いたします。

イエス、唯一の真の友、
私のすべての悪を
分かち持ち、背負い
悪を善に向かわせる秘訣をご存じの方。
あなたは悪をなだめる力に事欠かない。
私があなたへの愛を語るとき、
あなたは善意をもって私の声に耳を傾けてくださる。
いつでも、どこにいても、
わたしはあなたを見つけ、
あなたの方から遠ざかることは決してない。
私の居場所が変わっても、行く先々で、
わたしはあなたを探さずにはいられない。
あなたが私の声を聞き飽きることはなく、
わたしに幸せをもたらすことを喜びとしておられる。
あなたを愛するとき、
わたしはあなたから愛されていることを確信する。
あなたは私に善をもたらすことしかなさらず、
ご自分の善をいくら与えても
乏しくなることは決してない。
どんなに悲惨な状態にあっても、
この世のもっとも高貴なものも、
最も美しい精神も、
最も聖なるものでさえも、
私からあなたの友情を取り上げることはできない。
私たち人間を他の全ての友と決別させる死は、
あなたと私を結び付けるものとなる。
過労による苦労や、
運命的な不幸さえも
あなたと私を切り離すことはできない。
むしろ、そういう状況において、
私はあなたの存在を見いだし
この上ない喜びを感じ、
あなたは私にとって最も身近な方となる。
あなたは信じられないほどの忍耐をもって
私の欠点、
不誠実さ、
忘恩までも
耐えてくださる。
あなたをあれほどまで傷つけた忘恩さえも。
あなたは、いつでも
私を受け入れる準備をして待っていてくださる。
私があなたのもとに戻りさえすれば。



いかがでしょう、心が安まりませんか?イエスはいつでも待っていてくださいます。
あなたの声を聞きたいがために。
今年の聖心の祝日(6月19日)はもちろんのこと、月の初めの金曜日、毎週の金曜日に特別、時間を取ってイエス様の声に耳を傾けてはいかがでしょうか。
イエス様はあなたと、時間を過ごしたいのです。

         Sr・B

2020年5月18日月曜日

5月は聖母マリアの月です


 

 五月は聖母マリアの月です。

 春になり、花々が咲き始めて、明るい陽射しが感じられ、まさしく
「マリアの月」にふさわしいですね。

 しかし、現在世界はコロナウィルスの蔓延によって、すべての人々が苦しみを味わっています。もはや人間の力を超えるできごとです。
 
 オーバーアマガウ村の再現ではないですが、皆でひとつになって祈ることが求められています。

 フランシスコ教皇の強い願いとともに、私たち、とくにクリスチャンは心をひとつにして祈りましょう。
 
 この苦しみには意味があり、イエス・キリストの苦しみをともに担われた聖母マリアの苦しみに合わせて、私たちも日々の苦しみを捧げていきましょう。

                                   SMJ

2020年4月20日月曜日

神のいつくしみ


神のいつくしみの主日

昨日は主の復活の八日目で、神のいつくしみの主日。お恵みの日でした。
神の慈しみが注がれ、恐れることはありません。現在、心配や不安が多い中で、
神が私たちと共におられることを忘れないように頑張りましょう。
毎年、ご復活の聖なる徹夜祭に復活賛歌を歌います。この賛歌は深い意味です。
全体をお読みなったことがありますか。下記に復活賛歌を載せます。
この困難な時に希望を願い祈りましょう。


いざ、高らかに喜び歌え、
み使いの天の群れよ。
いざ喜び歌え、神の奥義よ。
かくも偉大な王の勝利に、音高く鳴れ、
救(たす)霊(かり)を告げるラッパよ。

楽しめよ、かくも美わしい光に包まれた地よ。
永遠の王の輝きに照らされて、おぼえ知れ、
全地から暗やみの消え失せたことを。
あなたもまた喜びたまえ、かくも輝かしい光に いろどられた母なる教会よ、
なお、この聖堂も民の大いなる声にこだませよ。
かくも妙なる光の祭りに集まった、いとも愛する兄弟たちよ、
願わくはわたしと共に全能の神のおん慈悲をよびくだすように。
それは、なんの功(いさお)もないのにわたしをレヴィ人のうちに加えたもうた者が、
さやかなおん光をわれらに注いで、このローソクの賛美を申し分なく歌う力を与えたもうためである。
かれと共に聖霊と一体をなし、生きかつ治めたもう神であるおん子、われらの主イエズス・
キリストによりて。
まことにふさわしく正しく、当然で有益なことである、目に見えぬ神である全能の父、
およびそのおんひとり子であるわれらの主イエズス・キリストを、心と精神との熱烈を尽くして、
声高らかに賛美し奉るのは。
それはかれが、われらのため永遠の父に、
アダムの負債を返し、尊いおん血で、古い負債の証書を消したもうたからである。
実にきょうこそは、まことの小羊のほふられる、
過越しの祭りである。そのおん血によって、信徒の門柱(かどばしら)は祝されるのである。

これこそは主がかって、
われらの先祖であるイスラエルの子らをエジプトから導き出し、
足をぬらさずに紅海を歩ませたもうた夜である。
これこそは実に罪のやみが火の柱によってしりぞけられた夜である。
これこそはきょう、全世界においてキリストを信ずるものを、
世の犯罪と罪のやみとから離れさせ、
恩恵に返し、聖者に加える夜である。
これこそはキリストが死のかせをくだき、
勝利者として冥府(よみ)からのぼりたもうた夜である。

なぜなら、あがないによってわれらに救いが与えられなかったならば、
生まれたのもわれらに無益であったであろうから。
ああ、奇(くす)しいかな、われらに対する主のおん慈しみは、

ああ、量りがたいかな、主の愛の恵みは、
それは主が奴隷を救おうと、おん子をわたしたもうたからである。
ああ、アダムが罪を犯したのは、まことに必要であった、それは、キリストのご死去によって、
絶やされたからである。
ああ、幸いな罪である、こういう気高い救い主を得るに値したとは。
ああ、実に幸いな夜である、ただこれだけがキリストの、
冥府(よみ)から帰り来たもうた時と時刻とを知ることができたとは。
これこそは、書き記して、
「夜は昼のように輝くであろう」とある。 
その夜である。それゆえこの夜の聖化は罪悪をはらい、罪を洗い去り、
倒れた者には無罪を、悲しむ者には喜びを返し与えるのである。
それは憎しみを追い払い、親しみを作り、権力をくじくのである。
この恵み豊かな夜に、聖なる父よ、
このたきものの夕のささげを受けおさめたまえ、これを聖なる教会は、
蜂の働きに作られた、このローソクのおごそかな奉献に、
主のしもべの手によって、主に備え奉る。
しかしわれらは今や神のみ栄えのため、
赤い火のともったこの光の柱の賛美を聞いた。
これは異なった部分に分かれては居るが、
分かれたために明るさを減ずることはない。
それは母である蜂が、このとうといともしびの材料とするために生んだ、
蝋のとけたのに養われるからである。
ああ、実に幸いな夜である、エジプト人を奪い、ヘブライ人を富ませたとは。
それは天上の物が地上の物と、神の物が人の物と、一つになった夜である。
それゆえ主よ、願わくはみ名の栄えのために、祝別されたこのローソクが、
この夜のやみを追い退けようと、たえず輝くように。
またこれが、かんばしい香りとして主によみされ、その光が天上の星に混じるように。
あけの星がなおその炎を見守りたもうように。
そのあけの星とは、私は言う、沈むことを知りたまわぬ者、冥府(よみ)から帰り来て、
明るく輝きつつ人類にあらわれたもうた者である。

ゆえに主よ、われらは主に願い奉る、主のしもべであるわれらにも、
すべての聖職者と主に忠実に仕える民にも、われらの教皇(お名前)
およびわれらの司教(お名前)と共に、ひとしく安らかな時を与え、
この喜ばしいご復活に当たり、絶えることのない保護をもってわれらをつかさどり、
治め、守りたもうように。

また権力をもってわれらを治める者をもかえりみ、主のおん慈しみとおん哀れみとの、
言葉に尽くせぬ賜物によって、かれらの思いを正義と平和とに導きたまえ。
それはかれらが主のすべての民と共に、地上の働きから天上のみ国に至るためである。
主と共に聖霊と一体をなし、生きかつ治めたもう神であるおん子、
このわれらの主キリストによりて。世々に至るまで。アーメン。

2020年3月17日火曜日

愛と奉仕の模範


「愛と奉仕の模範」
イエス、弟子たちの足を洗われる
聖書朗読
「 夕食の時であった。…(イエスは)食事の席から立ちあがって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「私のしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる。」と言われた。
…さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席について言われた。「私があなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを「先生」とか「主」とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ13・2~7、12~15)

黙想
 宣教奉仕の生活は、弟子の足を洗うというイエスの行為を模範とします。宣教者は
「仕えられるためではなく仕えるために」(マルコ10・45)来た主の生活に密接に従う人です。イエスは自らの模範によって、弟子たちに愛と奉仕の宣教者としての姿を教えました。
同じように、宣教者たちも自分自身のキリスト教的生活の証と模範によって教えます。
足は動きを象徴します。宣教者は絶えずイエスの足跡に従い、遣わされる所へはどこへでも、どんな時でも行って奉仕する準備と決意ができている人です。しかし、イエスの足跡に従うことは容易ではありません。他の人の足を洗うために、多くの謙遜と犠牲が必要です。したがって宣教者は自分を捨て、十字架を背負い、イエスの足跡に従うのです(マタイ16・24参照)。
足を洗うという行為はしもべの身分や謙遜や犠牲だけでなく、神の無条件の愛をも
象徴しています。この愛は、私たちが本物の福音宣教者や伝達者となることを妨げるあらゆるものを洗い流します。
       「『宣教の神秘』宣教者の心をもってロザリオを祈る 神言修道会」より
SMC

フォード・マドックス・ブラウン