2021年12月13日月曜日

よいクリスマスを!



皆さま、お元気ですか

今日はクリスマスのため、聖ベルナルドのお話を用意いたしました。これによって待降節の準備もできればいいと思います。

“キリストがこの世においでになったのは冬の季節でした。しかもキリストは、厳寒の真夜中においでになったのです。冬も夏も、日も夜も、ご自分で支配しておいでになる神の子が、一番非情な季節に、しかも真夜中にお生まれになったのは偶然の出来事だとお考えですか。他の子どもでしたら、自分の誕生の時刻を自身で選ぶことはできません。誕生の時刻には、やっと生きているだけだからです。理性の行使もできません。自由選択もできません。思考能力もありません。

しかしキリストだけはちがいます。彼は胎児でありながらすでに大人の精神年齢です。初めから神のうちにあり、神であったからです。だから、みどり子となった今でも、神と同じ知恵、神と同じ能力を持っているのです。キリストは神の力、神の知恵だからです。ところで、ご自分の誕生の時刻を自主的に選ぶことのできた御子イエズスは、選に選って、一年中で一番厳しい季節をお選びになりました。それは生まれたばかりの幼子にとって、とりわけ、幼子の体をくるむ

ために布切れしか持たず、幼子を寝かすために飼い葉桶しか持たなかった貧しい母にとって、この上なく辛い季節だったのです。”

良いクリスマスを!!        
 SMB

2021年11月30日火曜日

弱く貧しい幼子として

「かわいい」という日本語は、いまやそのまま “kawaii” と英語にも入っているようですが、もともとは「かわいそう」ということばと同じ語源でした。さかのぼると、中古の「かほはゆし(顔映ゆし)」ということばにたどりつき、これは顔を向けられないほどの思いであるという意味でした。そこから「気の毒で見ていられない」「不憫だ」という意味が出てきて、さらには小さい者や弱い者に対して思わず手を差し伸べたくなる感情を意味するようになりました。ここから現在のように「かわいい」「愛らしい」を意味するようになりました。(「語源由来辞典 https://gogen-yurai.jp/kawaii/ 2021年11月29日)


 教会はこの前の日曜日から待降節に入りました。待降節とはクリスマスの4つ前の日曜日から始まり、幼子イエスが来られるのを待つ準備期間のことです。毎週1本ずつ、アドベントクランツのろうそくを

ともしていき、クリスマスの週には4本すべてのろうそくが明々と輝きます。






 イエス・キリストは聖書の中で、「栄光と威光に満ちた」「万軍の主」といった、とかく輝かしい、力強いイメージで語られることが多いのですが、この世に来られたときは、このようなイメージとはおよそかけ離れた姿でした。全能の神の子でありながら、人の手を借りなければ食べたり飲んだりはおろか排泄することすらできない弱々しい赤ん坊としてこの世に生まれてこられたのです。しかも宿屋にはマリアとヨセフの泊まる場所がなく、かくして偉大な神の子は貧しい馬小屋でひっそりと生まれたのです。


 痛々しいほどに弱く貧しい幼子イエスの姿を思い描くとき、私はいつもエゼキエル書16章に出てくる、産み落とされてまだ血まみれの赤ちゃんのたとえを思い浮かべます。せっかくこの世に生まれてきたのに、誰にもかえりみられず、産湯にさえ入れてもらえず、野原に打ち捨てられて弱々しく泣いている赤ん坊。どんな人でも思わず足を止めて、身をかがめ、抱き上げてしまうにちがいありません。かわいそうなほどに愛おしいとは、まさにこのことでしょう。


 イエスはなぜ、全知全能の神の子でありながら、そのような弱々しい姿でこの世に来られたのでしょうか。それはきっと私たち人間を驚かせたり、怖がらせたりしないようにするためだったにちがいありません。だって、考えてもみてください。もしも自分の家にやんごとなき身分の方が来られたら、大変光栄ではあるけれども上を下への大騒ぎで、ひどく気疲れしてしまうことでしょう。


 神様は私たち人間の心をそっと訪れてくださる方です。黙示録にこんなみことばがあります。「見よ、私は戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事し、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(3章20節)。「人の心に土足で踏み込む」という表現がありますが、イエスは私たちの心に押し入ってくるようなことは決してなさいません。むしろ私たちがみずから心の扉を開けるまでじっと忍耐強く待っていてくださる方です。下の扉を叩くイエスはしばしば描かれるモチーフですが、扉をよくごらんください。外側に取っ手がついていませんね。つまりこれは、この扉が外からは開けられず、中にいる人が内側から開けるしかないことを表しています。この絵が表すように、イエスは私たち一人ひとりがみずから心の扉を開けるという自由意志を尊重してくださるのです。



 神様が私たちの心にひそやかに語りかけてくださることは、旧約聖書のなかでもほのめかされています。列王記上19章に、預言者エリヤがホレブ山の洞穴で夜を過ごす場面があります。エリヤがそこで神の御声を聞くのは、激しい風の中でもなく、地震の中でもなく、火の中でもなく、静かなささやきの中でした。実はエリヤはこのとき、王女イゼベルに命をつけねらわれており、エリヤとしては木の葉が風に鳴る音でさえも驚いて飛び上がるほどびくびくしていたかもしれません。そんなエリヤにとって、神様がこんなふうにそっと優しくささやきかけてくださったのは、どんなに慰めであったことでしょうか。



 三位一体の聖霊もまた、私たちを優しく力づけてくださる方です。カトリック教会では聖霊降臨の祭日に聖霊の続唱を歌いますが、この歌詞のなかに聖霊の優しい働きを表す歌詞があります。「苦しむときのはげまし 暑さのやすらい 憂いのときの慰め」として、聖霊は苦しみで干上がった私たちの魂をそっといたわり、回復させてくださいます。また、「すさみをうるおし、受けた痛手をいやす方」として、私たちの傷ついた魂を温かく包んで、癒してくださるのです。


 かわいそうなほどに弱く貧しい幼子として、私たちの心をそっと訪れてくださるイエス。救い主のひそやかな訪れを待ち望みながら、この待降節を過ごしたいものです。


(SMP)











2021年10月23日土曜日

聖人たちの祈り

 


聖人たちの祈り

 

お祈りは、神様との親密な対話といわれることがあります。でも、お友達とのおしゃべりとはちょっと違うような・・・・? 他の人たちはどんな感じでお祈りしているのでしょうか?

そこで、お祈りの達人たち、わたしが身近に感じている聖人たちのお祈りをご紹介したいと思います。  それは、マザー・テレサ!皆さんもよくご存知でしょうね。

 

主はいずこに

 

主よ、多くの場所で私はあなたにお会いしました。 

静かな畑の中で

空っぽの大聖堂の薄暗い聖櫃の中で

あなたを慕って寄り集う

人々の心と思いの一致の中で

私はあなたの心臓の鼓動を聴いたのです。

そういえば、喜びの中であなたを探したとき

そこにもあなたはおられました。

 

でも、苦しみの中でこそ私は

確実にあなたを見出します。

苦しみは鐘の響きのように

神の花嫁を祈りへと誘います。

主よ私は他人の苦悩をとおして

あなたにお会いしました。

苦しむ人々の示す崇高な受容の態度と

言い知れぬ慶びの中で

私はあなたにお会いしたのです。

 

それとは反対に

私自身のつまらぬ不都合や

取るに足らぬ不満の中で

あなたを見出すことはできませんでした。

苦難に見舞われながらも

私はあなたの贖罪的な受難のドラマを惜しいことに無駄にしてしまい

あなたの過ぎ越しの喜びを

安っぽい自己憐憫によって曇らせてしまったのです。

私の信仰を強めてください。

主よ私は信じます。

(マザー・テレサの祈りより)

文責SMG









2021年9月24日金曜日

中秋の名月

 9月21日は、中秋の名月でした。夜そして早朝に、東と西それぞれの方向に満月を見ることができました。空を眺めながら、ある絵本を思い出しました。

それは、昨年のクリスマスに亡くなられた安野光雅さんの『天動説の絵本-てんがうごいていたころのはなし-』という作品です。


この絵本は、かつて人々が世界をどのようなものと考えていたのか、そのことをたいへん緻密で美しい絵によって描いています。小学校中級から大人までが対象とされていますが、最近読んだときには、今だからわかる内容だと感じました。


この絵本は、次のように始まります。


 「小さな国がありました。

  人びとは太陽の下でくらしていました。

  森にはいって、けものを追う人もいました。

  海にでて、さかなをとる人もいました。

  たねをまいて、ムギをそだてる人もいました。

  人びとは、しずんでゆく太陽にむかっていのりました。

  日でりがつづいたり、

  じしんがおこったり、

  おそろしい病気がはやったりしませんよう、

  にんげんの力では、どうにもならないことを、

  人びとは天の神さまにおねがいしたのです。」


かつての人びとは、神の創造をはなれて物事を見ることがなかったのかもしれません。

そして、続きます。


 「夜の空には月がのぼりました。

  まんまるになったかとおもうと、夜ごとにそれはかけていって、

  しばらくみえなくなることもあります。

  どうして月は、大きくなったり、小さくなったりするのか。

  どこからきて、どこへかえるのか、どうしてもわかりませんでした。


  どこまでもどこまでもあるいてゆくと、海にでるということは

  わかっていました。その海の、もっとむこうには、なにがあるのでしょうか。

  そこは、かんがえるだけでもおそろしい地のはてです。

  海の水はきっと滝のようにながれおちているにちがいないのです。」

このあとには、今では迷信とされている占星術や魔法使い、錬金術、さらには、ペストの流行や大航海時代、地動説を支持した天文学者と教会の対立についても書かれています。地球は丸く、太陽の周りを回っていることが知られるようになるまでに、多くの人びとの不安や悲しみ、苦悩があったことが伝わってきます。


 冒険家の船出によって、この絵本は終わります。


 「もし西へ西へとすすんで東の国へゆき、

  もっとすすんでもとのところへかえってこれたとしたらどうでしょう。

  それは、大地がまるいというなによりのしょうこです。」


 「もし、天が動くのではなくて、地球のほうが動くのだったら、

  それは天と地がひっくりかえるほどの大さわぎです。

  それまでかんがえていたことが、ずいぶんまちがっていたことになるのです。

  わたしたちの大地がまわる………そんなことがあって、いいのでしょうか。」


「ともかく、ぼうけん家の船は出発しました。

西へ西へとすすんで、東からかえってくる。

ほんとうにそんなことができるのでしょうか。」


 「人びとは天にむかっていのりました。

  わたしの父が、無事にかえってきますように。

  わたしの兄が、無事にかえってきますように。

  わたしの子が、無事にかえってきますように。

  地のはてまでいって、地獄の底におちたりしませんよう。

  どうか、おまもりください。


  神さま!!」


SMV

2021年8月22日日曜日

 822日は天の元后聖マリアの記念日です。今年は主日と重なるので消えてしまいましたが、1954年、教皇ピオ12世によって、マリア様が神の母として、また新しいエヴァとしてイエスの救いのみわざにあずかったことを記念して制定されました。


 毎年822日になると、私は2013年にドイツのヘーデ(Heede)村を訪れたときのことを思い出します。ヘーデはドイツ北西部のニーダーザクセン州・エムズラントにある人口約2300人の小さな村ですが、ナチズムが台頭していた1937年から1940年にかけて、聖母マリアが4人の少女たちに100回以上現れたことで知られています。聖母に何と呼ばれたいか少女たちがたずねると、聖母は「宇宙の元后」(Königin des Weltalls) そして「哀れな霊魂たちの元后」(Königin der armen Seelen)とお答えになりました。


 聖母のご出現のほとんどは聖ペトロ教会(St. Petrus in Ketten)の隣の墓地で起こりました。少女たちの証言をもとにご像がつくられ、屋根でおおわれて、今では「祈りの場」(Gebetsstätte)と呼ばれています。毎年約7万人の巡礼者が訪れるにもかかわらず、いつも祈りの雰囲気に満ちており、人々がマリア様におささげする花やろうそくを眺めながら、こちらもまた祈りへと引き込まれていきます。

聖母マリアが出現された場所

 Gebetsstätteにあるもう一つの教会、マリア教会では、ミサはもちろん聖体礼拝が毎日行われています。ゆるしの秘跡もひんぱんに行われており、ここもまたなんとも形容しがたい祈りの雰囲気に満ちています。私が2013年に訪れたときは、822日はあいにく大雨で、やむなくマリア教会の中で祈りの集いが行われましたが、本来ならば人々はろうそくを持って外で行列をします。このマリア教会にはまた、あとでお話しするグレーテ・ガンゼフォートという女性が生きている間、毎年復活祭に「天使がつくった」ろうそくが何本も保管されています。

聖マリア教会の聖体顕示

毎年復活祭に天使がつくったろうそく

 Gebetsstätteでは聖母マリアのほか、大天使聖ミカエルも出現しました。それを記念してつくられたミカエルのご像は天を見上げており、いつでも神様の命令を受けて動けるように待機しているようです。左の翼にはヘーデの聖母子(聖母子がそれぞれ地球を上下から支えている)が彫られています。

大天使聖ミカエルが出現した場所

左の翼にヘーデの聖母子

 Heedeでは、聖母マリアのご出現を目撃した4人の少女たちのうちの一人、グレーテ・ガンゼフォート (Grete Ganseforth) の生家も訪れました。グレーテは1940年、罪人たちの救いのために自分を聖母に捧げてから、キリストの受難を幻視したり体験したりするようになり、やがて彼女は聖痕を受けます。現在グレーテの生家は何の変哲もないパン屋さんに隣接しており、そうだと知らなければ見落としてしまうでしょう。私は日本人のシスター3人とアメリカ人のシスター2人でグレーテの部屋を訪れて、そこで英語と日本語交互にロザリオを唱えました。

在りし日のGrete Ganseforth

 みなさんがわざわざ Heede を訪れる機会はないかと思われますが、下にHPのリンクを載せておきました。ドイツ語ですが、翻訳機能を使えばだいたいの意味はわかります。写真を眺めるだけでもおもしろいので、ぜひごらんください。


Heede GebetsstätteHP

 https://www.sankt-petrus-heede.de/index.php

Kirche am Weg Heede に関する詳細な解説がある。

 https://www.kirche-am-weg.net/sakrale-orte/heede-gebetsstaette/

Virtual Pilgrimage to Heede 2010  Gebetsstätteの見どころが3Dで見られる。

 https://roundme.com/tour/11617/view/28451

                                                                                                    (SMP)

2021年7月8日木曜日

「キノルド司教様生誕150周年」

 


77日にキノルド司教様生誕150周年に当たり、ごミサを捧げ、お墓参りに行きました。
 
ヨセフ・キノルドさんは187177日に生まれ、19歳の時にフランシスコ修道会に入りました。修道名ヴェンセスラウスをいただいて、26歳の時に司祭に叙階されました。故郷のギールスハーゲンで初ミサを捧げて、大歓迎されました。その後、ドイツのフルダ管区のメンバーとして様々なフランシスコ修道院で生活し、司牧のために全力を尽くしました。10年後、東アフリカで創立される新しい宣教地派遣に申し込み、スワヒリ語の勉強を始めました。
その頃、当時の函館教区のベルリオーズ司教様はローマに行き、その機会に北海道のために宣教師を見つけたいと望んでいました。旅行の道中、彼は船のなかであるフランス人と出会い、話し合いました。彼の娘さんは「マリアの宣教者フランシスコ修道会」(FMM天使)のシスターで、ローマで生活しているので、くれぐれもよろしく伝えてほしいと言われました。数か月後、ベルリオーズ司教様はFMMの総本部に行くと、言われた娘さんはちょうど転勤になって出た後でしたが、総長様と出会いました。北海道の宣教について話し合い、結局札幌のためにシスターたちを派遣する約束をいただきました。シスターたちの指導のために司祭が必要なので、フランシスコ修道会の司祭派遣を願われました。フランシスコ会の総長様はその願いに応じて、司祭3人の派遣を約束しました。北海道で外国語を教えるために国際的な共同体を作る考えでした。そのために総長様はフランスのモーリス・ベルタン師とドイツのヴェンセスラウス・キノルド師を任命しました。英語が出来る司祭は後で任命する予定でした。
そのようにヴェンセスラウス・キノルド師は1907年に来札しました。だんだん共同体は増え、道内各地にミッションを開きました。4年後には天使病院が開設されました。本修道会に於いては1920年に最初の姉妹たちを札幌駅で迎え、それから良いお父さんとしてシスターたちのことを配慮しました。長年土曜日の午後に必ずマリア院を訪ねました。そして1925年に藤高等女学校が創立されました。この学校はヴェンセスラウス・キノルド師の「一番のお気に入り」と言われて、亡くなるまで配慮してくださいました。来日22年後、1929年に札幌代牧区の司教としての叙階式が行われました。相変わらずお父さんのように北海道のミッションのために全力を尽くしました。1952522日、主の昇天の日に81歳で天に召されました。45年間、日本で宣教師として生活し、働きました。現在も天国で北海道のミッションのために取り成して下さっていると確信しています。       
   SMT

2021年6月15日火曜日

「イエスの聖心に対する祈り」


いとも尊きイエスの聖心よ、あなたに信頼いたします。

もはや、何も私を恐れさせ、不安にさせるものはありません。

私は、朝に夕に、あなたに信頼いたします。

喜びの時も、悲しみの時も、

幸せな時も、不幸の時も、

誘惑の時も、危険の時も、

生きていても、死んでいても、

この世においても、永遠においても、

あなたに信頼いたします。


祈りの時も、働きの時も、

成功の時も、失敗の時も、

目覚めている時も、休んでいる時も、

悲劇の時も、苦悩の時も。

自分の罪の欠点においてさえ、

あなたに信頼いたします。


あなたは私の希望のよりどころ、

私の旅路を照らす星、

私の弱さの支え、私の罪の許し、

私の臨終の時の慰め、

私の天国の喜びと歓喜。


幸いなる安らぎよ、

私の確かなる避難所、

あなたの力と慈しみをますます信頼させてください。

たとえ私があなたを敬う人々の中でもっとも貧しく、

あなたに仕える人々の中で最後のものであっても、

あなたが私の救いであるということを

永遠に信頼するものとならせてください。

この信頼が、今もいつも、

特に臨終の時に、

あなたに対して私の推薦状となりますように。アーメン。


ムッター・マリア・べーダ(本修道会の総長 1917年~1923年、1924年~1936年)が

このお祈りをよく祈りました。

SMC


2021年5月30日日曜日

聖母マリアの訪問

    5月31日は「聖母の訪問の祝日」です。マリアは天使ガブリエルから、従姉のエリザベトが奇跡的に身ごもったことを知り、すぐにエリザベトを訪ねました。もちろん、彼女のお腹にはイエス様が宿っていました。マリアとエリザベトが出会ったとき、聖霊が彼女の胎内の子ヨハネに油を注ぎ、ヨハネはイエスの存在に喜び躍りました。エリザベトも喜びと恵みに満たされ、お返しにマリアを祝福しました。祝福された聖母は、美しい賛歌でそれに応えました。喜びに満ちた祝日ですね。

    福音書には、聖ヨセフがマリアに同行したとははっきり書かれていませんが、多くの聖人たちは、聖ヨセフが同行し、その場で出来事を見聞きしていたと考えています。聖ヨセフがマリアと一緒に長い旅をして、彼女を助け、守ることは理にかなっています。この聖ヨセフの特別な年に、マリアが私たち一人一人を訪ねてきて、私たちがイエスの存在を認識し、喜びに満たされるようにしてくださるよう聖ヨセフに願いしましょう。この困難な時代に、神の愛と慈しみに希望と信頼を持てるよう、聖母マリアと聖ヨセフに祈りましょう。

Julius Schnorr von Carolsfeld
SMH

2021年5月14日金曜日

 聖母マリア、私たちのために祈って下さい。


 


5月13日に

ファティマの聖母の取り次ぎによって、世界平和、そして

一日も早いコロナウイルス感染拡大の収束を願って祈りました。

 

また5月中、教皇フランシスコのご意向に従ってコロナパンデミクの収束を願ってロザリオを続けて祈ります。

             SMT