2022年12月24日土曜日

 

神は貧しい

 みなさま、主のご降誕おめでとうございます。

クリスマス夜半のミサで読まれる福音箇所を聞くと、私はいつも「神は貧しい」というモーリス・ズンデルのことばを思い出します。ズンデルはスイス生まれの司祭で、その著『沈黙を聴く』(1992)のなかに、印象的というよりは衝撃的でさえあるこのことばが出てきます。

 イエスさまは私たち人間を救うために、神の栄光を捨てて私たちと同じ人間となり、貧しい大工の息子としてこの世にお生まれになりました。生まれたのはご自分の住まいではなく、家畜小屋として使われていた洞窟の一角で、しかもベビーベッドではなく、家畜の飼料が入った飼い葉おけの中に寝かされました。

 さらには、救い主の降誕が最初に告げ知らされたのは、王や祭司たちといったこの世の権力者ではなく、貧しい羊飼いたちでした。彼らは羊たちに草を食ませながらほうぼうを行き巡る生活を送っていたため、ユダヤ教の律法を守ることができず、ユダヤ人社会ではアウトサイダー的な存在でした。こうした社会の、いわば底辺に生きる人々に、輝かしい天使が現れて、神の子イエスの誕生が告げられたのです。

 神の子イエスがこんなにも貧しく小さくなって私たちの間にお生まれになったのは、神秘です。一つの理由は、そうすることで私たち人間を怯えさせないようにしたからなのかもしれません。もしもイエスさまがまばゆいばかりの神の栄光を輝かせながら私の目の前に現れたら、私のような罪人(つみびと)は恐れ多くて逃げ出してしまいます!

札幌マリア院の祭壇(2021年降誕祭)

 私たち人間のちっぽけな身の丈に合わせてひざをかがめ、目と目を合わせて語りかけてくださる神の子イエスの優しさは、その後の人生においてもたびたび見られます。私は一か月に一度、教会の入門講座でお話しすることがあるのですが、先日そこで配布したプリントにカラヴァッジョの絵をのせました。この絵は、イエスの十二弟子の一人トマスが復活したイエスと出会う場面です。トマスは他の弟子たちが復活したイエスを見たという言葉をどうしても信じられず、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない」と、なんだか子供じみたことを言います。そこに復活されたイエスさまご自身が現れて、トマスの言葉どおり、ご自分の脇腹の傷跡にトマスの指を入れさせる場面がこの絵です。よく見ると、なんとイエスさま自らがトマスの手を取って、ご自分の脇腹の傷跡に指を入れさせているではありませんか! 「トマス、おまえはまるで駄々っ子のようなことを言うね。仕方のないやつだ。ではお前の言うとおり、わたしの傷跡に指を入れてごらん」というイエスさまの苦笑が聞こえてきそうです。


 イエスを信じる人たちには、イエスの貧しさに倣って貧しく小さく生きようとする人たちがたくさんいました。皆さんがよくご存知の人物としては、マザー・テレサがインドのスラムで貧しい人々のために働いたことが思い浮かぶでしょう。私のまわりにも、高齢者たちのお世話を明るくほがらかに、忍耐強く続けている人、周囲の人々の必要にいつでもすばやく応えてくれる人、目立たない仕事を黙々と忠実に続けている人などなど、「無名の諸聖人」がたくさんいます。私たちはみなそれぞれのやり方で、「神の貧しさ」を生きることができるのです。

 神の子イエスが人となって貧しさのうちに生まれ、貧しさのうちに生をまっとうされて、そして輝かしい永遠のいのちへと復活なさったことを、この降誕節のあいだ、ともに思いめぐらせてみませんか。(SMP)


修道院のベランダである姉妹が雪に穴を掘り、ろうそくをともしました。



上と同じ写真です。