2021年11月30日火曜日

弱く貧しい幼子として

「かわいい」という日本語は、いまやそのまま “kawaii” と英語にも入っているようですが、もともとは「かわいそう」ということばと同じ語源でした。さかのぼると、中古の「かほはゆし(顔映ゆし)」ということばにたどりつき、これは顔を向けられないほどの思いであるという意味でした。そこから「気の毒で見ていられない」「不憫だ」という意味が出てきて、さらには小さい者や弱い者に対して思わず手を差し伸べたくなる感情を意味するようになりました。ここから現在のように「かわいい」「愛らしい」を意味するようになりました。(「語源由来辞典 https://gogen-yurai.jp/kawaii/ 2021年11月29日)


 教会はこの前の日曜日から待降節に入りました。待降節とはクリスマスの4つ前の日曜日から始まり、幼子イエスが来られるのを待つ準備期間のことです。毎週1本ずつ、アドベントクランツのろうそくを

ともしていき、クリスマスの週には4本すべてのろうそくが明々と輝きます。






 イエス・キリストは聖書の中で、「栄光と威光に満ちた」「万軍の主」といった、とかく輝かしい、力強いイメージで語られることが多いのですが、この世に来られたときは、このようなイメージとはおよそかけ離れた姿でした。全能の神の子でありながら、人の手を借りなければ食べたり飲んだりはおろか排泄することすらできない弱々しい赤ん坊としてこの世に生まれてこられたのです。しかも宿屋にはマリアとヨセフの泊まる場所がなく、かくして偉大な神の子は貧しい馬小屋でひっそりと生まれたのです。


 痛々しいほどに弱く貧しい幼子イエスの姿を思い描くとき、私はいつもエゼキエル書16章に出てくる、産み落とされてまだ血まみれの赤ちゃんのたとえを思い浮かべます。せっかくこの世に生まれてきたのに、誰にもかえりみられず、産湯にさえ入れてもらえず、野原に打ち捨てられて弱々しく泣いている赤ん坊。どんな人でも思わず足を止めて、身をかがめ、抱き上げてしまうにちがいありません。かわいそうなほどに愛おしいとは、まさにこのことでしょう。


 イエスはなぜ、全知全能の神の子でありながら、そのような弱々しい姿でこの世に来られたのでしょうか。それはきっと私たち人間を驚かせたり、怖がらせたりしないようにするためだったにちがいありません。だって、考えてもみてください。もしも自分の家にやんごとなき身分の方が来られたら、大変光栄ではあるけれども上を下への大騒ぎで、ひどく気疲れしてしまうことでしょう。


 神様は私たち人間の心をそっと訪れてくださる方です。黙示録にこんなみことばがあります。「見よ、私は戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事し、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(3章20節)。「人の心に土足で踏み込む」という表現がありますが、イエスは私たちの心に押し入ってくるようなことは決してなさいません。むしろ私たちがみずから心の扉を開けるまでじっと忍耐強く待っていてくださる方です。下の扉を叩くイエスはしばしば描かれるモチーフですが、扉をよくごらんください。外側に取っ手がついていませんね。つまりこれは、この扉が外からは開けられず、中にいる人が内側から開けるしかないことを表しています。この絵が表すように、イエスは私たち一人ひとりがみずから心の扉を開けるという自由意志を尊重してくださるのです。



 神様が私たちの心にひそやかに語りかけてくださることは、旧約聖書のなかでもほのめかされています。列王記上19章に、預言者エリヤがホレブ山の洞穴で夜を過ごす場面があります。エリヤがそこで神の御声を聞くのは、激しい風の中でもなく、地震の中でもなく、火の中でもなく、静かなささやきの中でした。実はエリヤはこのとき、王女イゼベルに命をつけねらわれており、エリヤとしては木の葉が風に鳴る音でさえも驚いて飛び上がるほどびくびくしていたかもしれません。そんなエリヤにとって、神様がこんなふうにそっと優しくささやきかけてくださったのは、どんなに慰めであったことでしょうか。



 三位一体の聖霊もまた、私たちを優しく力づけてくださる方です。カトリック教会では聖霊降臨の祭日に聖霊の続唱を歌いますが、この歌詞のなかに聖霊の優しい働きを表す歌詞があります。「苦しむときのはげまし 暑さのやすらい 憂いのときの慰め」として、聖霊は苦しみで干上がった私たちの魂をそっといたわり、回復させてくださいます。また、「すさみをうるおし、受けた痛手をいやす方」として、私たちの傷ついた魂を温かく包んで、癒してくださるのです。


 かわいそうなほどに弱く貧しい幼子として、私たちの心をそっと訪れてくださるイエス。救い主のひそやかな訪れを待ち望みながら、この待降節を過ごしたいものです。


(SMP)