2022年3月6日日曜日

主よ、助けて下さい!

世界,特にウクライナが泣いています。東京教区菊地功大司教様は2月28日に次のように宣
言しました。「教皇フランシスコは先日の一般謁見で、『神は平和の神であり、戦争の神
ではありません。神は皆の父であり、誰かのものではありません。わたしたちが必要とす
るのは兄弟であり、敵ではありません』と呼びかけ、さらに『暴力の悪魔的な無分別さに
対して、神の武器、すなわち、祈りと断食 をもって答えることをイエスは教えました』と
述べました。」

聖ピオ神父様は「ロザリオは武器だ。祈りは神の心を開く鍵だ。」とおっしゃいました。
さあ、武器をもって、一緒に力強く祈りましょう。

SMT












2022年2月3日木曜日

ルルドの聖母

 

211日 ルルドの聖母

この記念日は、フランス・ルルドの洞窟の近くで、ベルナデッタ・スビルーという少女に、1858211日~716日まで、18回にわたって聖母が現れたことを思い起こす。ベルナデッタは、「白い服を着た美しい女性」が誰なのかわからず、聖母に尋ねてみた。マリアは、「私は無原罪の御宿りです」と答えたが、これは4年前に教皇ピオ9世が教義として定めていた称号だった。1890年、教皇レオ13世は地元のタルブ教区に、この日を祝日として記念することを許可し、教皇ピオ10世が1907年に全世界の教会の記念日とした。ルルドは現在では、西欧世界で最も有名な聖母巡礼地になっている。

                            (カトリック新聞より) 

病人たち・信仰

「ルルドの思い出」には、毎日4時から、マッサビエルの洞窟を出発して、広い庭を一周し大聖堂前の広場に集まっている病人に祝福を授ける聖体行列の様子が描かれている。病人の前を通過する聖体に向かって、病人も付き添いのものも声を限りに祈り叫ぶ。ゆっくりとご聖体は、車の上の、ベッドに横たわった人々の前を過ぎる。

奇跡を見るまでは神を信じないという人たちである。しかし、この行列に参加するだけで、それらの人々の一つ一つ胸の扉を開いて、すべてを捨てて自分についてくるようにと神は語りかけてくるのではないだろうか。               (文 田中澄江より)

 

聖ベルナデッタの祈り

 「 おお イエズスよ どうかお与えください

     謙遜の糧

       従順の糧

心の苦しみを耐えしのぶに必要な忍耐の糧を。」


                                                                                                                                                 SMC

2022年1月1日土曜日

2022年


明けましておめでとうございます!



   過ぎ去ったことに - 感謝!

  来るべきものに - はい!」
ダグ・ハマーショルド

2021年12月13日月曜日

よいクリスマスを!



皆さま、お元気ですか

今日はクリスマスのため、聖ベルナルドのお話を用意いたしました。これによって待降節の準備もできればいいと思います。

“キリストがこの世においでになったのは冬の季節でした。しかもキリストは、厳寒の真夜中においでになったのです。冬も夏も、日も夜も、ご自分で支配しておいでになる神の子が、一番非情な季節に、しかも真夜中にお生まれになったのは偶然の出来事だとお考えですか。他の子どもでしたら、自分の誕生の時刻を自身で選ぶことはできません。誕生の時刻には、やっと生きているだけだからです。理性の行使もできません。自由選択もできません。思考能力もありません。

しかしキリストだけはちがいます。彼は胎児でありながらすでに大人の精神年齢です。初めから神のうちにあり、神であったからです。だから、みどり子となった今でも、神と同じ知恵、神と同じ能力を持っているのです。キリストは神の力、神の知恵だからです。ところで、ご自分の誕生の時刻を自主的に選ぶことのできた御子イエズスは、選に選って、一年中で一番厳しい季節をお選びになりました。それは生まれたばかりの幼子にとって、とりわけ、幼子の体をくるむ

ために布切れしか持たず、幼子を寝かすために飼い葉桶しか持たなかった貧しい母にとって、この上なく辛い季節だったのです。”

良いクリスマスを!!        
 SMB

2021年11月30日火曜日

弱く貧しい幼子として

「かわいい」という日本語は、いまやそのまま “kawaii” と英語にも入っているようですが、もともとは「かわいそう」ということばと同じ語源でした。さかのぼると、中古の「かほはゆし(顔映ゆし)」ということばにたどりつき、これは顔を向けられないほどの思いであるという意味でした。そこから「気の毒で見ていられない」「不憫だ」という意味が出てきて、さらには小さい者や弱い者に対して思わず手を差し伸べたくなる感情を意味するようになりました。ここから現在のように「かわいい」「愛らしい」を意味するようになりました。(「語源由来辞典 https://gogen-yurai.jp/kawaii/ 2021年11月29日)


 教会はこの前の日曜日から待降節に入りました。待降節とはクリスマスの4つ前の日曜日から始まり、幼子イエスが来られるのを待つ準備期間のことです。毎週1本ずつ、アドベントクランツのろうそくを

ともしていき、クリスマスの週には4本すべてのろうそくが明々と輝きます。






 イエス・キリストは聖書の中で、「栄光と威光に満ちた」「万軍の主」といった、とかく輝かしい、力強いイメージで語られることが多いのですが、この世に来られたときは、このようなイメージとはおよそかけ離れた姿でした。全能の神の子でありながら、人の手を借りなければ食べたり飲んだりはおろか排泄することすらできない弱々しい赤ん坊としてこの世に生まれてこられたのです。しかも宿屋にはマリアとヨセフの泊まる場所がなく、かくして偉大な神の子は貧しい馬小屋でひっそりと生まれたのです。


 痛々しいほどに弱く貧しい幼子イエスの姿を思い描くとき、私はいつもエゼキエル書16章に出てくる、産み落とされてまだ血まみれの赤ちゃんのたとえを思い浮かべます。せっかくこの世に生まれてきたのに、誰にもかえりみられず、産湯にさえ入れてもらえず、野原に打ち捨てられて弱々しく泣いている赤ん坊。どんな人でも思わず足を止めて、身をかがめ、抱き上げてしまうにちがいありません。かわいそうなほどに愛おしいとは、まさにこのことでしょう。


 イエスはなぜ、全知全能の神の子でありながら、そのような弱々しい姿でこの世に来られたのでしょうか。それはきっと私たち人間を驚かせたり、怖がらせたりしないようにするためだったにちがいありません。だって、考えてもみてください。もしも自分の家にやんごとなき身分の方が来られたら、大変光栄ではあるけれども上を下への大騒ぎで、ひどく気疲れしてしまうことでしょう。


 神様は私たち人間の心をそっと訪れてくださる方です。黙示録にこんなみことばがあります。「見よ、私は戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事し、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(3章20節)。「人の心に土足で踏み込む」という表現がありますが、イエスは私たちの心に押し入ってくるようなことは決してなさいません。むしろ私たちがみずから心の扉を開けるまでじっと忍耐強く待っていてくださる方です。下の扉を叩くイエスはしばしば描かれるモチーフですが、扉をよくごらんください。外側に取っ手がついていませんね。つまりこれは、この扉が外からは開けられず、中にいる人が内側から開けるしかないことを表しています。この絵が表すように、イエスは私たち一人ひとりがみずから心の扉を開けるという自由意志を尊重してくださるのです。



 神様が私たちの心にひそやかに語りかけてくださることは、旧約聖書のなかでもほのめかされています。列王記上19章に、預言者エリヤがホレブ山の洞穴で夜を過ごす場面があります。エリヤがそこで神の御声を聞くのは、激しい風の中でもなく、地震の中でもなく、火の中でもなく、静かなささやきの中でした。実はエリヤはこのとき、王女イゼベルに命をつけねらわれており、エリヤとしては木の葉が風に鳴る音でさえも驚いて飛び上がるほどびくびくしていたかもしれません。そんなエリヤにとって、神様がこんなふうにそっと優しくささやきかけてくださったのは、どんなに慰めであったことでしょうか。



 三位一体の聖霊もまた、私たちを優しく力づけてくださる方です。カトリック教会では聖霊降臨の祭日に聖霊の続唱を歌いますが、この歌詞のなかに聖霊の優しい働きを表す歌詞があります。「苦しむときのはげまし 暑さのやすらい 憂いのときの慰め」として、聖霊は苦しみで干上がった私たちの魂をそっといたわり、回復させてくださいます。また、「すさみをうるおし、受けた痛手をいやす方」として、私たちの傷ついた魂を温かく包んで、癒してくださるのです。


 かわいそうなほどに弱く貧しい幼子として、私たちの心をそっと訪れてくださるイエス。救い主のひそやかな訪れを待ち望みながら、この待降節を過ごしたいものです。


(SMP)











2021年10月23日土曜日

聖人たちの祈り

 


聖人たちの祈り

 

お祈りは、神様との親密な対話といわれることがあります。でも、お友達とのおしゃべりとはちょっと違うような・・・・? 他の人たちはどんな感じでお祈りしているのでしょうか?

そこで、お祈りの達人たち、わたしが身近に感じている聖人たちのお祈りをご紹介したいと思います。  それは、マザー・テレサ!皆さんもよくご存知でしょうね。

 

主はいずこに

 

主よ、多くの場所で私はあなたにお会いしました。 

静かな畑の中で

空っぽの大聖堂の薄暗い聖櫃の中で

あなたを慕って寄り集う

人々の心と思いの一致の中で

私はあなたの心臓の鼓動を聴いたのです。

そういえば、喜びの中であなたを探したとき

そこにもあなたはおられました。

 

でも、苦しみの中でこそ私は

確実にあなたを見出します。

苦しみは鐘の響きのように

神の花嫁を祈りへと誘います。

主よ私は他人の苦悩をとおして

あなたにお会いしました。

苦しむ人々の示す崇高な受容の態度と

言い知れぬ慶びの中で

私はあなたにお会いしたのです。

 

それとは反対に

私自身のつまらぬ不都合や

取るに足らぬ不満の中で

あなたを見出すことはできませんでした。

苦難に見舞われながらも

私はあなたの贖罪的な受難のドラマを惜しいことに無駄にしてしまい

あなたの過ぎ越しの喜びを

安っぽい自己憐憫によって曇らせてしまったのです。

私の信仰を強めてください。

主よ私は信じます。

(マザー・テレサの祈りより)

文責SMG









2021年9月24日金曜日

中秋の名月

 9月21日は、中秋の名月でした。夜そして早朝に、東と西それぞれの方向に満月を見ることができました。空を眺めながら、ある絵本を思い出しました。

それは、昨年のクリスマスに亡くなられた安野光雅さんの『天動説の絵本-てんがうごいていたころのはなし-』という作品です。


この絵本は、かつて人々が世界をどのようなものと考えていたのか、そのことをたいへん緻密で美しい絵によって描いています。小学校中級から大人までが対象とされていますが、最近読んだときには、今だからわかる内容だと感じました。


この絵本は、次のように始まります。


 「小さな国がありました。

  人びとは太陽の下でくらしていました。

  森にはいって、けものを追う人もいました。

  海にでて、さかなをとる人もいました。

  たねをまいて、ムギをそだてる人もいました。

  人びとは、しずんでゆく太陽にむかっていのりました。

  日でりがつづいたり、

  じしんがおこったり、

  おそろしい病気がはやったりしませんよう、

  にんげんの力では、どうにもならないことを、

  人びとは天の神さまにおねがいしたのです。」


かつての人びとは、神の創造をはなれて物事を見ることがなかったのかもしれません。

そして、続きます。


 「夜の空には月がのぼりました。

  まんまるになったかとおもうと、夜ごとにそれはかけていって、

  しばらくみえなくなることもあります。

  どうして月は、大きくなったり、小さくなったりするのか。

  どこからきて、どこへかえるのか、どうしてもわかりませんでした。


  どこまでもどこまでもあるいてゆくと、海にでるということは

  わかっていました。その海の、もっとむこうには、なにがあるのでしょうか。

  そこは、かんがえるだけでもおそろしい地のはてです。

  海の水はきっと滝のようにながれおちているにちがいないのです。」

このあとには、今では迷信とされている占星術や魔法使い、錬金術、さらには、ペストの流行や大航海時代、地動説を支持した天文学者と教会の対立についても書かれています。地球は丸く、太陽の周りを回っていることが知られるようになるまでに、多くの人びとの不安や悲しみ、苦悩があったことが伝わってきます。


 冒険家の船出によって、この絵本は終わります。


 「もし西へ西へとすすんで東の国へゆき、

  もっとすすんでもとのところへかえってこれたとしたらどうでしょう。

  それは、大地がまるいというなによりのしょうこです。」


 「もし、天が動くのではなくて、地球のほうが動くのだったら、

  それは天と地がひっくりかえるほどの大さわぎです。

  それまでかんがえていたことが、ずいぶんまちがっていたことになるのです。

  わたしたちの大地がまわる………そんなことがあって、いいのでしょうか。」


「ともかく、ぼうけん家の船は出発しました。

西へ西へとすすんで、東からかえってくる。

ほんとうにそんなことができるのでしょうか。」


 「人びとは天にむかっていのりました。

  わたしの父が、無事にかえってきますように。

  わたしの兄が、無事にかえってきますように。

  わたしの子が、無事にかえってきますように。

  地のはてまでいって、地獄の底におちたりしませんよう。

  どうか、おまもりください。


  神さま!!」


SMV