主のぶどう畑の謙遜な働き手、
真理の協働者である
名誉教皇ベネディクト16世
のために真心から感謝します。
私たちはこれからも
名誉教皇が示して下さった
信仰の証しに倣うことが
できますように。アーメン。
SMT
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みなさま、主のご降誕おめでとうございます。
クリスマス夜半のミサで読まれる福音箇所を聞くと、私はいつも「神は貧しい」というモーリス・ズンデルのことばを思い出します。ズンデルはスイス生まれの司祭で、その著『沈黙を聴く』(1992)のなかに、印象的というよりは衝撃的でさえあるこのことばが出てきます。
イエスさまは私たち人間を救うために、神の栄光を捨てて私たちと同じ人間となり、貧しい大工の息子としてこの世にお生まれになりました。生まれたのはご自分の住まいではなく、家畜小屋として使われていた洞窟の一角で、しかもベビーベッドではなく、家畜の飼料が入った飼い葉おけの中に寝かされました。
さらには、救い主の降誕が最初に告げ知らされたのは、王や祭司たちといったこの世の権力者ではなく、貧しい羊飼いたちでした。彼らは羊たちに草を食ませながらほうぼうを行き巡る生活を送っていたため、ユダヤ教の律法を守ることができず、ユダヤ人社会ではアウトサイダー的な存在でした。こうした社会の、いわば底辺に生きる人々に、輝かしい天使が現れて、神の子イエスの誕生が告げられたのです。
神の子イエスがこんなにも貧しく小さくなって私たちの間にお生まれになったのは、神秘です。一つの理由は、そうすることで私たち人間を怯えさせないようにしたからなのかもしれません。もしもイエスさまがまばゆいばかりの神の栄光を輝かせながら私の目の前に現れたら、私のような罪人は恐れ多くて逃げ出してしまいます!
| 札幌マリア院の祭壇(2021年降誕祭) |
私たち人間のちっぽけな身の丈に合わせてひざをかがめ、目と目を合わせて語りかけてくださる神の子イエスの優しさは、その後の人生においてもたびたび見られます。私は一か月に一度、教会の入門講座でお話しすることがあるのですが、先日そこで配布したプリントにカラヴァッジョの絵をのせました。この絵は、イエスの十二弟子の一人トマスが復活したイエスと出会う場面です。トマスは他の弟子たちが復活したイエスを見たという言葉をどうしても信じられず、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない」と、なんだか子供じみたことを言います。そこに復活されたイエスさまご自身が現れて、トマスの言葉どおり、ご自分の脇腹の傷跡にトマスの指を入れさせる場面がこの絵です。よく見ると、なんとイエスさま自らがトマスの手を取って、ご自分の脇腹の傷跡に指を入れさせているではありませんか! 「トマス、おまえはまるで駄々っ子のようなことを言うね。仕方のないやつだ。ではお前の言うとおり、わたしの傷跡に指を入れてごらん」というイエスさまの苦笑が聞こえてきそうです。
イエスを信じる人たちには、イエスの貧しさに倣って貧しく小さく生きようとする人たちがたくさんいました。皆さんがよくご存知の人物としては、マザー・テレサがインドのスラムで貧しい人々のために働いたことが思い浮かぶでしょう。私のまわりにも、高齢者たちのお世話を明るくほがらかに、忍耐強く続けている人、周囲の人々の必要にいつでもすばやく応えてくれる人、目立たない仕事を黙々と忠実に続けている人などなど、「無名の諸聖人」がたくさんいます。私たちはみなそれぞれのやり方で、「神の貧しさ」を生きることができるのです。
神の子イエスが人となって貧しさのうちに生まれ、貧しさのうちに生をまっとうされて、そして輝かしい永遠のいのちへと復活なさったことを、この降誕節のあいだ、ともに思いめぐらせてみませんか。(SMP)
| 修道院のベランダである姉妹が雪に穴を掘り、ろうそくをともしました。 |
| 上と同じ写真です。 |
教会暦年の最後の日曜日は「王であるキリスト」の祭日です。
本修道会のドイツ本部の教会には「王であるキリスト」に捧げられて、「王であるキリスト」
の大きなモザイクがあります。
「王笏を手に、玉座に座しておられる方が私たちに語りかけておられる。
わたしは主である。
わたしは天の栄光のうちに住み、
神聖な輝きを受けて光を放つ。
わたしは宇宙に君臨し、
人類を支配し、教会を統治し、
修道会を治める。
わたしは心の王であり、あなたたちの主である。
わたしは権力ある者をその座から降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者の手を空しくしてかえす。
わたしを求める者は、見出し、
わたしに扉を開く者は、入ってその中にとどまり、
わたしにより頼む者は、見捨てられることがない。
わたしは救い主、
あなたたちを見つめ、祝福し、
あなたたちと共にいて、赦し、強め、聖なるものとする。
わたしはあなたたちを愛する。
わたしは主であり、救い主である。」
(ヨハネ・ブリンクマン神父様) SMT
10月23日に祝われる「世界宣教の日」のメッセージで、教皇様は「キリスト者は皆、キリストの宣教者、証人となるように召されています。だからキリストの弟子たちの共同体である教会には、キリストを証して世界を福音化する以外の使命はありません」-省略-
1.福音を延べ伝え生き方で証しする
「事実、主イエスが弟子たちを二人一組で宣教に送り出したのは偶然ではありません。キリスト者がキリストを証しすることには何よりも共同体的な性格があります。だからこそ宣教を行うには、小さなものであったとしても、共同体の存在が不可欠なのです。」
「キリスト者の生き方の見本とキリストの告知は一体です。一方が他方に役立ちます。宣教者となるため、すべての共同体はこの二つの肺で呼吸しなければなりません。」
「キリストの教会は、かつても今も、これからも、地理的・社会的・実存的に新たな地平へと、そして【境界線の外】にある場所や人間の境遇へと、キリストとその愛をあらゆる民族、文化、社会的境遇の人すべてに証しするため、常に【出かけていく】のです」
教皇様は「疲れたり、やる気がなかったり、途方に暮れていたりするときにこそ」、祈りを通じて「聖霊によって強められ、導かれる」と教える。
「私は、すべてにおいて宣教者である教会を、そしてキリスト共同体における宣教活動の新たな時代の訪れを夢見続けています…そうです。教会の私たち皆が、洗礼によって既にそうである者、主の預言者、証人、宣教者でありますように。聖霊の力によって、地の果てに至るまで」
(カトリック新聞 抜粋)
SMC
大天使聖ミカエル、
日々の戦いに私たちを守り、
悪魔の力に勝つようお守りください。
神が彼に命令をお下しになることを
伏してお願いいたします。
ああ、聖なる大天使よ、
霊魂を損なおうとして働いているサタン、
その他の悪魔を、
神の御力によって退けてくださいますように。
アーメン。
SMH