
もうクリスマス!
今年もあっという間に終わります。
あれもしよう、これもしようと思ったことも、なかなか思う通りに進みません。 そんな自分にガッカリした時に、神様は「仕方がない、よしよし」と言ってくださると思うようにしています。
ところで、先月11月23日札幌マリア院で行われた、イエズス会の平林冬樹神父様の講話についてお話ししたいと思います。
「津和野・乙女峠のあかし人 一一 近現代の 教会の礎 一一」という、殉教者がテーマの講話でした。
日本では、キリスト教は江戸時代から長い間禁教とされ弾圧を受けていました。明治政府になって近代化が推し進められましたが、宗教の自由については江戸時代と変わらず認められていませんでした。それどころかキリスト教の信仰を公にした信徒たちは、迫害を受け恐ろしい拷問によって少なくとも660人が命を落としたのです。
平林神父様は、日本のカトリック教会の歴史とローマの教会の誕生の歴史について、双方とも大迫害を乗り越えて誕生した共通点があると話されました。
ローマの教会は、聖霊降臨のあと再び集まった信徒たちによって生まれましたが、しかしそれから数百年の間、敵対者に囲まれて歩み続けました。キリスト教の信者であるという理由だけで、残酷な方法で公開処刑されたのです。しかし、信者は増え続け、命を奪われても神様の愛を信じ続けた多くの信者の証があったのです。
ローマの教会と日本の教会との双方に共通するのは、神様は何があっても私と共にいてくださる愛の父なのだ、という命をかけた信仰です。
日本では、故郷である長崎から引き離された約3,400人もの信者が、西日本の22藩22箇所に流配されました。キリスト教から神道に改宗させるためです。恐ろしい尋問や拷問にあっても、信者たちは信仰以外のすべてにおいて役人たちに従ったそうです。6年にも及ぶ過酷な流配にもめげない信仰の証しが、政府と世論を動かし、不完全ながらも信仰の自由が実現したのです。非暴力による主張で信教の自由を実現した例は、 世界に例を見ないそうです。
恐ろしい尋問と拷問のもとでは、誰でも深い絶望と悲しみに落ち込んだことでしょう。しかし深い絶望を知る人こそ真の信仰を、神様への希望を見い出すことができることを示しました。
このことは、混迷する現代に生きる私たちにも、希望を見い出すすべを教えてくれるのではないか、と平林神父様は話されました。
私が特に感動したことは、 中には過酷な拷問により心ならずとも棄教してしまった人々もいたが、その人たちはある程度の自由を与えられると、信仰を守り続ける仲間を物心両面で助け続けたということです。信仰を守り続ける人々はその援助を快く受け入れ、棄教を責めたりはしなかったそうです。それどころか、のちに赦されて長崎浦上に帰る時に、棄教してしまった人たちは、それは本心ではなく迫害に耐えかねてのことだった、赦しの秘跡を受ける願いを叶えていただきたい、と司祭に手紙まで書いていたのだそうです。
ゆるすということは、強さと優しさの両方がないとできません。誰かに対しても、自分の不甲斐なさに対しても。
平林神父様のお話を聞いて、今の自分に不満ばかり抱いていたことを反省し、私の笑顔や態度によって少しでも周りの人々に、心の平和や安心感につながればと願う今日この頃です。
SMG