6月は、カトリック教会では伝統的にイエスのみこころの月とされていますが、今回はあえて三位一体の神について書こうと思います。
三位一体の祭日は、カトリック教会の暦では聖霊降臨の祭日の次の日曜日にあたります。
三位一体というと、なんだか壮大すぎて、深遠すぎて、私たちの生活といったいどんな関係があるの?という気持ちにさせられます。けれども私は個人的に、三位一体の神というのは私たちが考える以上にもっと親しくたがいに交わり、そして私たちの毎日の生活のなかで私たちが考える以上にもっと身近に、そしてひそやかに働いていると信じています。
三位一体のなかの御父は、ルカ福音書で語られている放蕩息子の父のように、私たちを痛むほどに愛される神です。私たちが神を忘れて毎日自分の意のままに生き、神のいない世界の中で笑い愉しみ、傷つき怒っているあいだ、父なる神は毎日家の外に出ては、遠い地平線の彼方を見つめ、えもいわれぬほどの痛みを心に感じながら待ち続けておられます。そして私たちが神なき世界の中で傷つき倒れ、ぼろぼろになった体をひきずってようやく神の前に帰ってきたとき、私たちが言い訳めいたことを口にするより先に私たちを深く抱きしめ、愛の懐へと招き入れてくださる方です。
三位一体のなかの御子イエスは、聖アウグスティヌスが言ったように、私自身よりももっと私に近い方。親友以上に親しい友で(英語では、the closer friend than your closest friendとでもいうのでしょうか)、私たちがなにやらたくさん隠し事をして、いつもなんだか後ろめたくて、もじもじしている横で、なにもかもわかっているよ、だから大丈夫だよと微笑み、私たちの手にご自分の手を重ねて、私たちがおずおずと自分の言葉で語りだすのを静かに待っておられる方です。
そして、三位一体のなかの聖霊。しばしば風にたとえられるように、私たちがなにか行き詰ってにっちもさっちもいかなくなったとき、私たちの心にささやきかけ、インスピレーション(inspiration. 文字通り、「息」を「吹き込んで」くださるのですね)を与えて、突破口を開いてくださる方。詩編の中に、「神は私を広いところに移された」という一節がありますが、たとえ八方ふさがりの密閉状態のなかにいても、聖霊はまるで風のようにどこからともなくするりと入り込んできて、私たちを解放してくださるのです!
この記事にのせた絵は、アンドレイ・ルブリョフというロシア正教会の修道士が描いた聖画(イコン)で、皆さんもどこかで見たことがあるでしょう。詳しい解説は他に譲りますが、この絵は三位一体をあらわしていると言われています。一つのテーブルを囲んで三人が座り、彼らはお互いに見つめ合っているというよりも、AがBを、BがCを、CがAを見ているようにもみえます。言葉も交わさずに。ここに三位一体の循環的な、よどむことのない静かな交わりを見て取ることもできるでしょう。
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