2025年9月1日月曜日

「好奇心から教会に来ました」

 何年か前から、私は日曜日よく北1条カトリック教会の英語ミサに行っています。ミサの終わりに、初めてその教会に来た人たちが前に出て自己紹介する習慣があります。英語ミサなので、前に出てくる人の多くはカトリック信者の旅行者なのですが、なかには札幌市内またはその近郊在住の人で、「好奇心から教会に来ました」という人たちもいます。
 こうした人がいると、聖堂にいる人たちは「へえ」と軽く驚きます。外国では、たいてい宗教は先祖代々受け継がれてきたもので、単なる「好奇心から」ほかの宗教の礼拝堂を訪れる人はあまりいないからです。たとえばイスラム教徒で「好奇心から」キリスト教会に足を踏み入れる人はあまり多くないし、同じキリスト教でもプロテスタント教徒で「好奇心から」カトリック教会を訪れる人もあまりいません。

 しかし現代日本は実質的には無宗教の人が圧倒的に多いので、「好奇心から」教会を訪れる人はけっこういます。そして「好奇心から」とは言いつつも、実はその一言にもっと深い意味が隠されていることもあります。たとえば、「それまで特に信仰を持たずに生きてきたけれど、本当にこの世には人間を超える<存在>はないのだろうか。また、いろいろな人がいろいろな主張を声高に叫んでいるけれど、時代の風潮や個人の価値観に左右されない<真理>というものはないのだろうか。キリスト教のことは前から気になっていた。今日は勇気をふりしぼって教会に行ってみようと思った」というような動機です。しかし、短い自己紹介の場で長々と自分のことを語ることははばかられるし、そもそも自分の心の深いところで起こった<内的できごと>をことばで言い表すのは難しいものです。そしてまた、こうした魂の深みで起こったできごとは、神様と私とのあいだでひそやかにやりとりされてきたことなので、それを大勢の人々の前でむやみに話していいというものでもないのです。

 今年、フランスのカトリック教会で10,384人の成人の求道者が復活祭に洗礼を受けたことが、さまざまなメディアで取り上げられました。そのうち42%が18~25歳の若年層であったことはさらに大きな驚きを与えました。私も英語のニュース媒体で2,3人のインタビューを読みましたが、ある若い男性は軍隊に属しており、カトリック信者の上官からカトリックの教えについて手ほどきを受けたことが、教会に足を向けるきっかけになったと語っていました。またあるハイティーンの女の子は、両親とも教会にはむしろ敵対的な立場をとっていたが、自分は人生に確たるものがほしくて探求を続けた結果、カトリック教会にたどり着いたと語っていました。
 若い求道者の出現という現象はフランスだけではなくイギリスでも見られ、さらにはここ札幌地区で、数は少ないながらも同じような現象が見られるようになりました。私は3年前からある教会で入門講座を担当していますが、現在5~6人いらっしゃる求道者のうち、2人が20代、2人が30代です。札幌のほかのいくつかの教会でも20代の求道者が何名かいらっしゃり、先日は修道院に興味があるという高校生が引率の女性と一緒に私を訪ねてきました。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」(ヨハネ3.8)。日本のカトリック教会に子供や若い人が少なくなったと嘆かれるようになって久しいですが、聖霊は私たちが思いもよらなかったところに風を吹かせます。かつて日本の教会には、ヨーロッパ諸国から多くの宣教師、宣教女が来ていましたが、今は韓国、インド、アフリカ諸国から多く来てくださるようになりました。またここ数年は、ベトナム人の若い信徒が日本の教会を活気づけてくれています。「好奇心から」教会を訪れる人々が、やがて教会につながれ、キリストと出会い、そして日本の教会を支えていく力となっていきますように。
                                       (SMP)