2025年1月27日月曜日
2025年1月8日水曜日
希望はすでに始まっている

私が修道会に入会したのは2002年でしたが、そのころはすでにシスターを志す人は少なくなっていました。たった1人で見習い期間をスタートし、ほかに仲間がいないので、不安でよく泣いていました。
「やはり自分はシスターとして向いていないのかも」。そんな思いに何度もとらわれ、実際あきらめかけたこともありました。なぜ踏みとどまることができたのかは、自分でもよく覚えていません。ただ今になってわかるのは、目上のシスターたちがあんな不安定な志願者に対して忍耐してくれたのは、私という人間にではなく神様に希望をおいていたからなのだということです

話は変わって、去年の12月24日、サンピエトロ大聖堂で教皇フランシスコが「聖なる扉」を開き、カトリック教会では聖年がスタートしました。聖年のモットーは「希望の巡礼者」です。
「希望の巡礼者」というモットーが皮肉に響くほど、希望を持つことが今ほど困難なときはありません。戦争や紛争、テロリズムが絶えず、平和を祈っても一向にそのきざしが見えません。「こんなに熱心に平和を祈っているのに、戦争は終結するどころかますます激化しているのはなぜですか」とある人から問われて、私も答えることができませんでした。
それでも私たちキリスト者は神に希望をおくことをやめません。私にとって「信仰」は「希望」の類語です。信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです。」(ヘブライ1.1)と使徒パウロは言いました。祈りがなかなか答えられないように感じても、いつか必ず芽を吹き、花を咲かせるだろうと、希望を捨てずに祈り続けます。

希望を持つというのは、一回こっきりの行為ではありません。何度も何度も、ときには落胆や失望を味わいながらも、希望を「持ち直して」いくのだと思います。この聖年にあたって教皇フランシスコは『希望は欺かない』という大勅書を公布しました。そのなかで「希望と密接に結びついた徳」として「忍耐」をあげています。「聖霊の実で[ある]忍耐は、希望を生き生きと保たせ、それを徳としても生き方としても強めてくれます。ですから、希望の娘でありつつ、希望を支えてくれる忍耐の恵みをしばしば願い求めることを学びましょう」(『希望は欺かない』4)。すべての希望を吹き散らしていくようなこの失望の荒野で、私たちは忍耐強く何度も希望を持ち直していかなければなりません。
現代社会に生きる私たちは、忍耐することが苦手です。ある人々はアマゾンプライムで映画を倍速再生して、「タイパ」(タイムパフォーマンス)を意識した映画の見方をするのだと聞いて、最初は冗談かと思いました。かくいう私も、誰かにメールを送って、相手からすぐに返事が来ないと不安になります。誰かにLINEでメッセージを送って、既読マークがついているのに一両日中に返信が来ないと、私は相手に対してなにか重大な罪を犯してしまったのではないかと、自分の言動を必死に反省し始めます。
そんなに急いで私たちはどこに行こうとしているのでしょうか。
そんなに急いで私たちは何に向かっているのでしょうか。
修道会に入会して驚いたのは、シスターたちが高齢や病気の仲間に対して辛抱づよく奉仕する姿でした。時間や労力を惜しまず、ときには喜んで奉仕する彼女たちを通して、私はこの世とは正反対の価値観があることを知りました。こうした生き方ができるのは、シスターたちが神様に希望をおいているからなのでしょう。「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。」(マタイ25.40)というイエスさまのことばを信じ、そのみことばに希望をおく人々の生き方です。
希望はすでに始まっています。シスターたちが日々の生活のなかですでに神への希望を実践しているように、私たちの希望はすでに始まっています。アメリカのテレビでおなじみだったマザー・アンジェリカは、天国についてこう語っています。「私たちはこの世の生活のなかで[すでに]天国を生き始めるのです。どのような状態にいるのかは問題ではありません。いいわけはなし・・・。私たちはこの地上で、今の場所、今の時代を生きるように置かれたのです。そこで私たちは聖なる者となるように招かれているのです」(Mother Angelica, What Is Heaven? p. 24 試訳)。希望もそれと同じで、教皇が聖なる扉を開いたときから私たちの希望が始まり、2026年1月6日に扉を閉じたときにそれが終わるわけではありません。教皇の動作はあくまでも目に見える象徴なのです。私たちの希望は今すでにここで始まっており、この先も――失望や落胆に打ちひしがれることがあってもなお――続いていくのです!
(SMP)
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