2024年5月5日日曜日

イエスのおん傷

『スパイ・ゾルゲ』(2003年)という映画をDVDで観ていたとき、ゾルゲ役の俳優が片足を軽くひきずりながら歩く場面を見て、世の中の女性というのは非の打ちどころのない美男子よりはむしろ何か欠けたところがある男性に惹かれるものなのかもしれないな、と感じました。

 私たちの普段の生活の中でも、見目麗しく頭脳明晰、かつ裕福な人間よりはむしろ、多少の欠点はあるけれども愛すべき人というのが、一緒にいて安心できるのではないでしょうか。

 イエスさまが死者の中から復活されて弟子たちの前に現れたとき、「手と足をお見せになった」(ルカ24.40)と書かれてあります。その手と足に十字架に釘付けられたときの傷あとが残っていたとは書かれていませんが、私はきっと残っていたと思います。ヨハネによる福音書の並行箇所では、弟子たちに「手とわき腹とをお見せになった」(ヨハネ20.20)とあります。これは、弟子たちが復活されたイエスを見てもにわかに信じられないでいるので、イエスさまは十字架に釘付けられたときの傷がまだ残っている手と、槍で刺された跡が残っているわき腹をわざわざお見せになったのでしょう。さらにはそのあとで、弟子のトマスが、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言う場面があります。そこにイエスが現れて、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい」(ヨハネ20.27)とトマスにおっしゃっているのです。これらのことから、復活したイエスの体に十字架に釘付けられたときの傷がまだ生々しく残っていたことは明らかです。

 イエスさまがなぜ復活されたあとも御傷をそのままお残しになったのか、そこには何か深い意味があるような気がします。私の修道名は「ピエタ」です。ミケランジェロが制作した、イエスの亡きがらを膝に抱く聖母マリアの像、といえば、ああと思う方も多いかもしれません。自分の修道名がピエタであることもあり、私はイエスの御傷に深い思いを抱いています。
私たちが生きている世界は、傷や病というものは克服するべきもの、癒すものです。「癒し系」が人気を博したり、名医に病気を治療してもらうために外国まではるばる出かける人もいます。

 しかしイエスの御傷はクリスチャンにとって特別な意味があります。それは、イエスさまが十字架上でむごい死を遂げられることによって、私たちを罪から救ってくださったからです。旧約聖書の中に、「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ53.5)というみことばがあるとおりです。私たちクリスチャンにとって、イエスの御傷は私たちの救いのみなもと、泉なのです。だから教会の屋根には十字架があるし、聖堂には必ず十字架があるのです。クリスチャンの中には十字架のネックレスなどをする人たちもいます。

 私たちの修道院では寝る前の祈りで、「イエスの尊いおん傷のうちに私たちは隠れます」と唱えます。私がとても好きな、というか、やはり胸に深くしみることばです。神の子でありながら、私たち人間と同じ肉体に深い傷を引き受けてくださったイエスに感謝と賛美。私がこの身と心に受ける傷をイエスの御傷に重ねるとき、それはもはや単に癒すべきもの、克服するものではなく、深い意味を帯びるものへと変えられていくのです。

                                        (SMP)