7月7日にキノルド司教様生誕150周年に当たり、ごミサを捧げ、お墓参りに行きました。
ヨセフ・キノルドさんは1871年7月7日に生まれ、19歳の時にフランシスコ修道会に入りました。修道名ヴェンセスラウスをいただいて、26歳の時に司祭に叙階されました。故郷のギールスハーゲンで初ミサを捧げて、大歓迎されました。その後、ドイツのフルダ管区のメンバーとして様々なフランシスコ修道院で生活し、司牧のために全力を尽くしました。10年後、東アフリカで創立される新しい宣教地派遣に申し込み、スワヒリ語の勉強を始めました。
その頃、当時の函館教区のベルリオーズ司教様はローマに行き、その機会に北海道のために宣教師を見つけたいと望んでいました。旅行の道中、彼は船のなかであるフランス人と出会い、話し合いました。彼の娘さんは「マリアの宣教者フランシスコ修道会」(FMM天使)のシスターで、ローマで生活しているので、くれぐれもよろしく伝えてほしいと言われました。数か月後、ベルリオーズ司教様はFMMの総本部に行くと、言われた娘さんはちょうど転勤になって出た後でしたが、総長様と出会いました。北海道の宣教について話し合い、結局札幌のためにシスターたちを派遣する約束をいただきました。シスターたちの指導のために司祭が必要なので、フランシスコ修道会の司祭派遣を願われました。フランシスコ会の総長様はその願いに応じて、司祭3人の派遣を約束しました。北海道で外国語を教えるために国際的な共同体を作る考えでした。そのために総長様はフランスのモーリス・ベルタン師とドイツのヴェンセスラウス・キノルド師を任命しました。英語が出来る司祭は後で任命する予定でした。
そのようにヴェンセスラウス・キノルド師は1907年に来札しました。だんだん共同体は増え、道内各地にミッションを開きました。4年後には天使病院が開設されました。本修道会に於いては1920年に最初の姉妹たちを札幌駅で迎え、それから良いお父さんとしてシスターたちのことを配慮しました。長年土曜日の午後に必ずマリア院を訪ねました。そして1925年に藤高等女学校が創立されました。この学校はヴェンセスラウス・キノルド師の「一番のお気に入り」と言われて、亡くなるまで配慮してくださいました。来日22年後、1929年に札幌代牧区の司教としての叙階式が行われました。相変わらずお父さんのように北海道のミッションのために全力を尽くしました。1952年5月22日、主の昇天の日に81歳で天に召されました。45年間、日本で宣教師として生活し、働きました。現在も天国で北海道のミッションのために取り成して下さっていると確信しています。 SMT
その頃、当時の函館教区のベルリオーズ司教様はローマに行き、その機会に北海道のために宣教師を見つけたいと望んでいました。旅行の道中、彼は船のなかであるフランス人と出会い、話し合いました。彼の娘さんは「マリアの宣教者フランシスコ修道会」(FMM天使)のシスターで、ローマで生活しているので、くれぐれもよろしく伝えてほしいと言われました。数か月後、ベルリオーズ司教様はFMMの総本部に行くと、言われた娘さんはちょうど転勤になって出た後でしたが、総長様と出会いました。北海道の宣教について話し合い、結局札幌のためにシスターたちを派遣する約束をいただきました。シスターたちの指導のために司祭が必要なので、フランシスコ修道会の司祭派遣を願われました。フランシスコ会の総長様はその願いに応じて、司祭3人の派遣を約束しました。北海道で外国語を教えるために国際的な共同体を作る考えでした。そのために総長様はフランスのモーリス・ベルタン師とドイツのヴェンセスラウス・キノルド師を任命しました。英語が出来る司祭は後で任命する予定でした。
そのようにヴェンセスラウス・キノルド師は1907年に来札しました。だんだん共同体は増え、道内各地にミッションを開きました。4年後には天使病院が開設されました。本修道会に於いては1920年に最初の姉妹たちを札幌駅で迎え、それから良いお父さんとしてシスターたちのことを配慮しました。長年土曜日の午後に必ずマリア院を訪ねました。そして1925年に藤高等女学校が創立されました。この学校はヴェンセスラウス・キノルド師の「一番のお気に入り」と言われて、亡くなるまで配慮してくださいました。来日22年後、1929年に札幌代牧区の司教としての叙階式が行われました。相変わらずお父さんのように北海道のミッションのために全力を尽くしました。1952年5月22日、主の昇天の日に81歳で天に召されました。45年間、日本で宣教師として生活し、働きました。現在も天国で北海道のミッションのために取り成して下さっていると確信しています。 SMT