2021年3月25日木曜日

一人ひとりへの「神のお告げ」

 3月25日は神のお告げの祭日です。大天使聖ガブリエルがおとめマリアを訪れて、彼女がおとめのままで神の御子を懐妊したことを告げたことを記念します。この祭日は、節制に励む四旬節(しじゅんせつ)のさなかにあることもあって、カトリック信者にとってはちょっとほっとする日でもあります。
   
 神様が私たちに何か望みを伝えようとなさるときは、残念ながら神様との直通電話というものはないので、さまざまな出来事や人々をとおして示されるのが普通です。私自身、自分の人生を振り返ってみて、ああ、あれが神様からの呼びかけだったのだなと感じる出来事がいくつかあります。

 私がシスターになることへの最初の呼びかけ――召命(しょうめい)――を感じたのは、大学生のころ、同じ教会に通っていた男の子がある修道会に入る準備をしていることを知ったときでした。ミサが終わったあと、彼が会衆の前に立って、中学校を卒業したあと長崎にある修道会の志願院に入るという紹介がされました。それを聞いて、私はなぜか「いいな」とうらやましく感じたのでした。

 それから数日後、卒業した大学の図書館に立ち寄った帰りに構内を歩いていたとき、在学中にお世話になったシスターと階段でばったり出会いました。私はシスターに、志願院に入る予定の例の少年について話しました。そして、自分がうらやましく感じたことも。するとそのシスターが、「あなたはどうして彼の決心に『いいな』と感じたのですか?」と私にたずね、私ははっとしました。そこで初めて、自分もまた修道者になりたいという望みを心の奥深くに抱いていたことに気づいたのです。

 神様からの呼びかけにこたえて何か大きな決心をしようとするとき、私たちはしばしば別の力が邪魔するのを経験します。私が奉献生活者――教会ではブラザーやシスターのことをこう呼びます――になりたいという望みをはっきり意識したとき、今まで送ってきた「自由な」生活への愛着は、やはり断ち切りがたいものがありました。しかし、自分の足を引っ張るGの力を振り切ってジャンプすることを可能にしてくださるのは神様です。大学院を中途退学し、ボーイフレンドに別れを告げ、私の決断を理解できずに不機嫌に黙り込む父をあとにして、私は修道院の門をくぐり、そして今日までここにいます。


 人それぞれ、自分なりの「神のお告げの祭日」があることでしょう。
 忙しく歩き回る足をふと止めて、みなさんも神様からの静かな声に耳を傾けてみませんか。 (smp)