9月15日は、「悲しみの聖母」の記念日です。わが子イエスが十字架につけられて亡くなられたことを聖母マリアが悲しまれたことを思う日です。聖母の悲しみといえば、イタリア・ルネッサンス期のミケランジェロが制作したピエタ像を思い浮かべる人も多いでしょう。十字架の上で亡くなられたキリストをひざの上に抱く、あの悲しくも美しい聖母マリアの彫刻です。
聖ペトロ大聖堂のミケランジェロのピエタ像 |
自分の修道名が「ピエタ」であるためか、私はイエスの受けた御傷に対して特別に強い思いを抱いています。聖書の中に、「彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた」(イザヤ53.5)というみことばがありますが、イエスの受けた「傷」によって私たちが「癒される」という、まるで正反対のことを包含する神のくしき御業に深く魅了されます。
自分自身の人生の歩みを振り返ってみると、心に受けた傷というのは身体的な傷と同じように、癒えるのに時間がかかるものです。あまりにもショッキングな出来事を経験した直後は、そのことを自分の中で受けとめるのが精いっぱいで、誰かに話そうと思ってもなかなか言葉にならないものです。さらにはせっかく勇気を出して人に話したのに、共感を持って聴いてもらえることは極めてまれで、へたに慰められたり、励まされたり、ひどいときには聞き流されたり、いさめられたりまでして、「こんなことになるのだったら、いっそのこと話さなければよかった」と、かえって傷口が広がってしまうことすらあります。
キリストは私たちの心に決して無理に入ってはこられません。「見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう」(黙示録3.20)。キリストは私たちの心のドアを静かにノックするだけです。このみことばを表現した絵では、ドアは外側に取っ手がついていません。それは、ドアを開けるのはあくまでも内側にいる私たちであって、外側にいるキリストは決して無理にこじ開けたりしないことを表しています。私たちはイエスに向かってドアを開けてもいいし、開けなくてもいい。たとえ私たちが開けなかったとしても、キリストが私たちに災いを下したり呪いをかけたりするようなことは決してありません。
私が心の扉をイエスに向かって開けるか開けないか決める自由を、私にそっとゆだねてくださっているイエスに賛美!
扉の外側には取っ手がついていない |