「愛と奉仕の模範」
イエス、弟子たちの足を洗われる
聖書朗読
「 夕食の時であった。…(イエスは)食事の席から立ちあがって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「私のしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる。」と言われた。
…さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席について言われた。「私があなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを「先生」とか「主」とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ13・2~7、12~15)
黙想
宣教奉仕の生活は、弟子の足を洗うというイエスの行為を模範とします。宣教者は
「仕えられるためではなく仕えるために」(マルコ10・45)来た主の生活に密接に従う人です。イエスは自らの模範によって、弟子たちに愛と奉仕の宣教者としての姿を教えました。
同じように、宣教者たちも自分自身のキリスト教的生活の証と模範によって教えます。
足は動きを象徴します。宣教者は絶えずイエスの足跡に従い、遣わされる所へはどこへでも、どんな時でも行って奉仕する準備と決意ができている人です。しかし、イエスの足跡に従うことは容易ではありません。他の人の足を洗うために、多くの謙遜と犠牲が必要です。したがって宣教者は自分を捨て、十字架を背負い、イエスの足跡に従うのです(マタイ16・24参照)。
足を洗うという行為はしもべの身分や謙遜や犠牲だけでなく、神の無条件の愛をも
象徴しています。この愛は、私たちが本物の福音宣教者や伝達者となることを妨げるあらゆるものを洗い流します。
「『宣教の神秘』宣教者の心をもってロザリオを祈る 神言修道会」より
SMC
フォード・マドックス・ブラウン |