今年2020年1月26日(日)に、「神のことばの主日」を初めてカトリック教会でお祝いしました。そこで、聖書と私との個人的なかかわりについてお話ししてみたいと思います。
これは、修道会に入会してから最初の3年間の「見習い期間」に身につけた習慣ですが、夜寝る前に、翌日のミサの聖書箇所を読むことにしています。そして翌朝、午前5時15分ころに聖堂に行って、その日のミサの聖書箇所をもう一度読み直し、黙想します。
聖書は英語で読んでいます。日本語で読み流していたところで、気づくことも多いからです。 |
ミサが終わって仕事に出かけ、その日一日あれこれと仕事をしているうちに、残念ながらせっかく朝 黙想したみことばを忘れてしまうこともよくあります。それでも、ふとしたきっかけで思い出すことがあるので、ふしぎなものです。
思うに、日々の聖書からの読書(レクチオ・ディヴィナ)というものは、毎日の食事と同じで、たとえ一回一回 何を食べたかあとになって思い出せなくても、必ず私たちの体の中で栄養素として働いているのでしょう。たとえば、夕食にインゲンのごまあえを食べたことを翌朝忘れてしまったとしても、インゲンから摂取したビタミンやミネラルが体内で消えてなくなるわけではありません。ちゃんと胃の中で消化されて、私たちが生きていくために必要な力になってくれます。同じように、2回も読んだはずの聖書箇所を、恥ずかしながら忘れてしまったとしても、そのときに得た「魂の栄養素」は私たちのなかでしっかり働いてくれています。
聖書を黙想する方法は、さまざまです。私は数年前に黙想指導の神父様から教わったように、黙想中は体の姿勢を大きく変えないようにしています。なぜその神父様が――というより、その神父様が所属していらっしゃるイエズス会の創立者 ロヨラの聖イグナチオがそのように言ったのか、理由ははっきりとわかりません。おそらく気が散るのを防ぐためなのでしょう。
その神父様から教わったもう一つの方法として、私はロザリオを使いながら聖書のみことばを祈るのも好きです。心に響いたみことばを、ロザリオの珠を繰りながら何度も心の中で唱えます。そうするうちに、そのみことばが心の深みに沁みとおっていくのを感じたり、あるいは誰かのための祈りとなっていくこともあります。
左のロザリオは長崎で購入したもの。 右は韓国人の神父様からいただいたもので、神父様方のために祈るときにこのロザリオを使います。 |
教皇フランシスコは自発教令の形式による使徒的書簡『アペルイット・イリス(Aperuit
illis)』を、2019年9月30
日(聖ヒエロニモ司祭の記念日)に公布しました。そのなかに、「主はご自分のことばの中にあらゆる宝を隠された。私たち一人ひとりが、黙想するものの中に富を見出すことができるためである」と書いています。私たちは日々、聖書のみことばを読んで、たとえそのときは心の中を素通りしていったとしても、ふとなにかの折に、「こういうことだったのか!」と思い至ることがあります。それが教皇フランシスコの言うところの「みことばの富を見出すこと」なのでしょう。毎日何ページも読まなくてもいいのです、長時間集中して黙想することなどもっと無理です。肩ひじ張って聖書と組み合うのではなく、まずは毎日少しずつ「魂の食事」を始めてみませんか?
(SMP)